常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

深川 丸山寺

2012年10月09日 | 旅行


深川は嫁いだ姉が住む町だ。私は50数年も前に、この町にある深川西高に通った思い出の深い町である。北海道を出てからこの町にきたのは、わずか10度内外だ。この町の近くで生まれたとはいえ、ほとんどが足を踏み入れたことのない知らない町だ。

ガーミンのGPSをたよりに、一人で歩いてみることにした。地図をみてまず目に入ったのが丸山である。200mも歩くと取り入れの終わったが田が、見渡すかぎりに広がっている。その向こうにに目指す丸山が見えてきた。なるほど、名前のとおり丸い山である。標高114m、このあたりの海抜は60mほどであるので、あたりから山頂までは50数mの高度差ということになる。

山の麓に立派な建物が建っている。向こうの裾に墓地が見えているので、ここはどうやらお寺らしい。この寺の歴史は、明治28年に入植した屯田兵の歴史とともにある。いま開けて田になっているところも、屯田兵が入ったころは、昼なお暗い鬱蒼とした原生林であった。開墾は命をかけた自然とのたたかいである。人間の手で鍬を握り、鉈を振るった。木の根を掘り起こす労力はいかばかりであったか。

そこでのお寺が果たすべき使命は想像を超えて大きい。この屯田兵のなかにには、四国出身の弘法大師の信者が多数存在した。この人たちが中心となって入植の鍬を入れてからわずか12年目に、伐採した原生林の向こうに標高114mの丸山を見つけ、新四国霊場88カ所を開基した。明治40年のことである。

姪の家に生き残った3人だけの兄弟が集まった。毛がにの盛られた食卓だが、話は辛い過去の確認になる。父や母への繰り言が口をついて出てくる。ここで生き残るには、逞しい精神力を必須条件とする。それに負けたものは、やがて病に侵かされ、朽ち果てていくしかない。この地に帰る度ごとに、本当は愛すべき心やさしい肉親たちの野辺の送りに立ち会ってきた。自らが生きていくために、つい死者に鞭うつ発言になる。ふと悲しい気持ちになってしまう。3人が会うのはこれが最後かという思いが体の底から湧きでてくる。



深川の東の高台に立って、石狩川のうねりの向こうの町を展望する。この暴れ川に、この流域は幾度となく侵食されてきた。きょう見たところでは水量は少ない。私の家は、この写真のはるか北側で川の蛇行に抱かれるような流域にあった。ある朝、普段見えない水面が堤防を横切って、畑の上に湖のように広がっていた。一晩の雨に膨れ上がって水が、蛇行をやめて溢れたのだ。ジャガイモの畑は、見渡す限りの水の中であった。

聞きなれない水の音が、家のなかまで聞えていた。少しだけ高台にあった私の家が水に浸かることはなかったが、下の方に3軒の果樹を作る農家があった。記憶のなかにそれらの家が流されたということはないので、水に浸かりながらも無事であったに違いない。



東の高台には教会があり、ここで結婚式を挙げるカップルもいるという。ぽつんと、洋風のしゃれた家が建っている。後ろのカラマツに似合うたたずまいである。牧場のような草原に羊が飼われていた。近づいて、草を与えると啼きながらおいしそうに食べ、また次の草を欲しがった。

いつもの年なら辺りの木々は紅葉に染まる季節だが、9月の残暑の影響かどこも青々とした緑である。だが、なだらかな山に囲まれた空気は、私を包み込んで落着かせる。子どものころから馴れ親しんだ風景がそうさせるのか。このような気分になって初めて故郷の土に立ったことを実感する。

はたはたと黍の葉鳴れる
ふるさとの軒端なつかし
秋風吹けば        石川 啄木


コメント
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