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昨日、陽気に誘われて川辺を散策した。蔵王の山々には残雪がみえるが、雪解け水で増水した川は、軽やかな音を立てて流れ、川の畔に椅子を持ち出して、川を眺めながらお茶を楽しむ老夫婦の姿が見られた。ひときわ声高く啼くのはひよどりだ。顔を出したふきのとうを採って、刻んで豆腐を入れた味噌汁を作った。口いっぱいに春の香りが広がった。待ち遠しかった春の訪れである。
徳富蘆花は『自然と人生』の一項に、「彼岸」と題して、春の訪れの喜びを書いている。古文体だが、ここに抜き書きしてみる。
「今日彼岸に入りぬ。
梅花歴乱として、麦緑已に茎をなしぬ。菜花盛りとなり、椿はぽたりぽたりと
落ち落ちて地も紅なり。
野に出づれば、田の畔は土筆、芹、薺、嫁菜、野蒜、蓬なんども蔟として足を踏み容る可き所もなし。董は花となりて、蕗も小さき青笠を翳し初めぬ。其翳に含羞める菫菜花の何ぞ美しき。」
田の畔に出る草本は、どれも食用となり、この時代の食卓を春の香りでにぎわせた。嫁菜は野菊の若芽で、出始めを摘んで作る嫁菜飯が春の風物詩になっていた。「嫁菜をまっ青にゆでて、白い御飯にまぜよう。すこしばかり塩味のついた嫁菜飯は香りたかく、目にも美しい。」というのは、佐多稲子の随筆にある。ほんの少し時代をさかのぼれば、里に広がる野山から、摘んでくる山菜や野草を食卓の乗せて楽しんでいた人々がいる。スーパーに並ぶ、野菜の高騰に一喜一憂せず、もっと自然に目を向けるべきだ。
春風や堤長うして家遠し 蕪村
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