笹谷峠へ行く古道を歩いた。車などない時代、この地に住む先人は、峠を越えて、他国へ行った。いま好天の秋、紅葉を楽しみながら歩くのと違って、峠へ至る道を見いだした人々の叡智にあらためて感嘆する。一歩間違えれば、深い渓に迷い、また急峻な絶壁に行く手を遮られる。こんなに歩きやすい峠道を見出した先人にただ驚き、深い敬意を抱く。同時に、峠には様々な危険が隠されていたであろう。
この峠道を登りつめたところに、有耶無耶の関がある。この関についての言い伝えは、この道を使うことがどういうことであったかを語っている。この山には鬼が住み、ここを通る旅人を捕らえて喰ってしまった。旅人を哀れんだ仙人が、鳥に姿を変えて、旅人の問いに答えるようななった。「仙人さま、今日は鬼はいますか?」仙人の鳥が「有耶(うや)」と答えると、旅人は身を隠して鬼が去るのを待った。仙人が「無耶(むや)」と言うと、旅人は安心して峠を越えたという。ここから、この関を有耶無耶(有耶無耶)の関と呼ぶようになった。
峠には鬼が出没するというだけではない。冬の峠道はさらに危険が旅人を待ち受けていた。この峠道に吹き付ける風雪は尋常のものではない。ある年、吹雪のなか、峠を越えようとした6人の旅人がいた。ところが、あまりにすさまじい風雪に吹き込められて、6人の旅人は命を絶った。春になって近在の人が雪を掘ると、これらの人々の遺体が見つかった。あるものは、自分の家のある方角を見つめ、あるものは風雪に背を向けて倒れ、6人とも別々の方を見ながら死んでいた。麓の人々はこれら遺体の見た方角に、6体の地蔵を立てて慰霊した。これが6地蔵道である。
戦後になって、現代の人々にはまた別の峠感を持つようになった。閉じられた世界から、開ける世界への接点、それを峠とした詩人真壁仁の詩の一節を見てみよう。
峠 真壁仁
峠は決定をしいるところだ。
峠には決別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける
秋晴れに恵まれた峠歩きは、こんなことを考えながら楽しく歩いた。本日の参加者10名、うち女性10名。峠路の紅葉ももうすぐ終わりになる。