常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

行乞

2015年09月26日 | 日記


種田山頭火は大正14年に出家し、禅の修行をした。その修行の方法は主に、行乞の旅である。旅の費用は旅の道々、家の前で行う托鉢によって得ていた。雨が降って托鉢をできないと、修行ができないばかりか、旅の費用もたちまち底をついてしまう。昭和5年に出た旅は、九州の各地を行乞しながら巡った。

このみちや
いくたりゆきし
われはけふゆく

しずけさは
死ぬるばかりの
水がながれて

山頭火はこの旅を日記に書き残した。その日記の冒頭に、この句を書き付けた。行乞という日を送りながら、酒や風呂も、そして秋の景色も楽しんだ。その日記は、読んで大変に面白い。現代を生きるものとって、山頭火の境地はどこか憧れのようなものがあるからだ。

そんな旅を続ける山頭火の前に小さな少女が現れた。学校に入る前の、お茶目な少女だ。その子の家の前に山頭火が立つと、少女は家のなかに駈け行って、母から一銭をもらってきてくれた。それだけではない、山頭火の前を行って家々の奥さんを探しては、一銭をもらってきてくれた。少女の行いを、「ありがたいやら、おかしいやらで微苦笑しながら、行乞を続けた」とその日の日記に書いている。山頭火の行乞の旅には、こんな微笑ましいシーンもあった。

9月28日の朝日新聞、文化文芸欄に山頭火の記事が載った。山頭火の悲劇的な生涯が略記されている。山口県の大地主の長男に生まれたが、9歳で母親が自殺、進学した大学は神経衰弱のため中退。帰郷して酒造りを始めたが破産。妻子を連れて熊本へ逃げ出す。さらに弟の自殺、自身の離婚、心身の疲弊。酒に溺れ泥酔状態で電車に飛び込む自殺未遂。禅寺に預けられ、そこで出家した。放浪の旅と日記、句作。放浪から11年後、昭和12年の日記には、「やりきれなくて街に出かけて酔う」「無にはなれるが、空にはなかなかなれない」と書いている。

昭和15年、流転の旅の末、山頭火は四国・松山で57歳の生涯を閉じた。
コメント (2)
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