狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

ハンバーガーについて

2010-01-24 23:10:35 | Weblog
悪し様に
言われる企業
それぞれの
言われるほどの
悪さはどこか

週一回くらいの頻度で米帝ハンバーガーチェーンに行っている。
もっと多い時もあるし、少ない時もある。
安いわけではない。 高くはないが。
健康に悪そうだ。
では何故行くのか。

先日それを食べながら、何故そこに来たのかを考えたのだが、
食感だろうという結論が出た。
かじりつく。 ほおばる。 むさぼる。
ソバにせよ寿司にせよピザにせよ、庶民に親しまれる食事というのは
食感を楽しむ、という傾向が強いように思われる。

ハイチの復旧が始まっている模様。
http://cnn.co.jp/world/CNN201001240002.html

リンカーン氏の暗殺が1865年、米西戦争が1898年。
このころにアメリカの中心がボストンから移ったのだとか。

イランで航空機炎上。
http://timesofindia.indiatimes.com/world/middle-east/46-injured-as-Iran-plane-catches-fire-Report-/articleshow/5494340.cms
イラン人は事故が続く状況をどう見るだろうか。
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非核三原則について

2010-01-23 23:06:14 | Weblog
来ては引く
情緒の汐に
定まった
境界は無し
恣意に流され

ハマスはイスラエルを承認しないとか。
http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2010/01/20101230202291283.html
一連の出来事の起点を、何処に見るか。
2001年か、1990年か、1979年か、あるいは1946年か。
2001年だとアルカイダが、1990年だとサダム・フセイン氏が、
1979年だとホメイニ氏が悪いということになるが、
1946年だと、だれなのでしょうね?

さて非核三原則について。
「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」が非核三原則だそうな。
持たず、作らずについては基本的には国際条約、核不拡散と同等。
その二つは基本的に自分でやることですから守ろうとすれば守れるわけですが、
持ち込ませずは違うと。
何年か前に、というか度々起きているのでしょうけれども沖縄近海などを
所属不明の原子力潜水艦が出現する事件が報道されたりしています。
つまり持ち込ませず、というのが原則という分類になることは有り得ない。
努力目標。
スローガンの類なんですな。
「麻薬撲滅」なんかと同様の。

でだ。
非核三原則を連呼している人達を見ると。
非武装中立論や憲法第九条を連呼している人達と同じグループなんですね。
疑問が湧いてくるわけです。
非核三原則ってなんのために作られたのかと。
彼らが彼らのために作ったのなら
それは嫌がらせを目的とした物なのではと。
だから西か東か、相手によって使い分けることに
これまで疑問符が付かなかったと。

彼らサヨクと呼ばれる連中がクソだからといって
核兵器を残すという結論には当然なりません。
とりあえず核武装国の方々、持ってる物を減らして下さい。
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貧困国について

2010-01-22 17:04:22 | Weblog
食卓の
色様々に
並ぶ皿
好きの嫌いの
気になる日持ち

ホワイトバンド運動って一体なんだったんだろなあと。
日本での活動はもっぱら、旧東側諸国によるスパイ活動のカモフラージュ
だったのではとも囁かれていますが。

でも私はハイチ人がほっとかれたことを憤るのは筋違いだと見ます。
貧困を問題とするのなら変わるべきは先進国ではなく後進国の側。
実際地震後の彼らは、がれきをどけて道路を使えるように戻すことも
隣人の遺体を埋葬することもしなかった。
もちろん自分自身が生き残ることを最優先にするのは間違ってはいないだろうし
身元や宗教を無視して遺体を埋葬してしまったら後々問題になるだろう。
それは判る。
でも彼らはしなかった。
「自分たちでやる」ということをしなかった、これも事実。
今は厳しいことを言うべき時ではないと?
今変われなきゃこれからずっと変われませんよ。

中南米諸国における政治家の歴史を見るに
彼らはアメリカ合衆国にほっとかれることを目指していた。
そしてハイチでは、それがある程度実現していた。
そう見ることも出来る。

貧困国は何故貧困国なのか。
貧困国だからだ。
貧困国の住人は貧困国である現状を変えようとしていない。
明日の飯より今日の飯。
それが日常でありそれで困らないのだろう。
政治家がいない、とも言われている。

別にこれまでと何かが変わったわけではないのだが貧困国にはこれから先、
三つの道があるとみる。
一つは発展した国に指導してもらう道。
かつての台湾や朝鮮半島の、日帝との関係のようなもの。
一つは現状維持という道。
貧困国としての現在に満足して、普段はなにもしない。
何か悪いことが起きたらアメリカが悪いと言って過ごす。
一つは自分の足で立つことを目指す道。
これは政治をする政治家がいなきゃ無理ですが。
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アメリカ人保守派が国民保険を嫌う理由について

2010-01-21 23:57:08 | Weblog
税金を
多く使える
人が居て
使うあて無き
人そっぽ向く

シベリア抑留者に特別給付金。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100109-OYT1T00539.htm
補償ゴロが蠢いているんだろうな。

さてアメリカ人保守派が国民保険を嫌う理由について考えてみる。
保険事業を進めているのはリベラル派なわけだ。
リベラル派というと移民利権派なわけだ。
ここで、アメリカ国民は移民に金を払いたくない、という結論で終わらせても
まあいいのだが、もう少し考えてみる。

保守派はどう見ているか。
アメリカは一方に農業畜産業、鉱業といった一次産業があると。
もう一方にサービス業、つまり訴訟や金融、情報といった三次産業があると。
製造業はその中間なので全体としてはどっちつかず。
一次産業系のアメリカ人は自分たちだけでやっていけるとの意識がある。
彼らが保守的な政治多数派。 彼らをとりあえず農業派と呼ぶことにする。
三次産業系のアメリカ人はその逆で、少数派ではあるが報道権力を握っている。
ここでは彼らを金融派と呼ぶことにする。
一般に保守派とされるのは農業派と金持ちがいるわけだが
ここでは多数派として投票権を持つ農業派の考え方だけに注目してみる。

農業派にしてみれば本来一国でやっていけるアメリカを金融派が牛耳っていて
世界的なマネーゲーム、パワーゲームで様々な厄介事を引き込んでいる。
彼らの政治権力を支えているのが不法移民。
金融派はアメリカ中に根を張っていて農業派の資産は税金や訴訟などのトラブルで
結局東部に吸い上げられる、そう見ていると。
つまり保険の実態は不法移民へのばらまきという面が大きくまた、増税、
あるいは医療訴訟の増加などで吸い上げ機能が強化されるだけだと。

この見解で合っているとすると、国民保険に反対している農業派は
迷信や狂気で動いているわけではないということになる。
そして保守派の一方である金持ち、つまり共和党だがそれは、
農業派にとっては政治的な窓口でありだから支持されているのだと。

さらにいうと病院まで車で半日の場所に住んでいる人達は
医療保険の恩恵が自分たちに回ってくるということは有り得なく、
それを受けるのは都市部に住んでいる人達だけだと思っていると。

右派の理念と左派の利権が真っ向からぶつかっていますね。
左右対立の緩和方法はというと適当な税金以外の吸い上げ装置を明示して
それを政府がぶっ壊せばいい、ということになるわけですが。
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精神障害者について

2010-01-21 20:14:14 | Weblog
連れ添わる
挙動を覗く
バスの窓
外から叩く
人に驚き

先日昼過ぎ、例によって例の如く無目的に家を出た。
途中ドラッグストアでいくつかの値札がありその内の一つが他より若干、
印象が強く見えた。
駅に行きその金額に近い値段の切符を探すと一駅該当した。
そこに向かうことにした。
結局途中の乗換駅でソバを昼食に食べ、スーパーで白菜などを買って帰った。

でその買った白菜だが、先ほど半分ほどカレー煮にして食べた。
白菜の葉を切り塩胡椒を一緒に鍋に入れ火に掛け白菜から出た水分で煮込み、
最後にひと味欲しい気がしたので手近に残っていたカレー粉を上からかけた。
味の統一性は無かったが、まあ美味しかった。

そう。 美味しかったのだ。 私にとっては。
だがそれをここに書くことにどんな意味が、「美味しかった」という文章を
ここでただ読む人だけにとってどれだけの意味があるのだろうか。
これが芸術の類だと違ってくる。
読む人に見る人にとって、読むだけ見るだけで価値があるとされる。

さて精神障害者について。
精神障害者の社会における評価はどのようなものだろうか。
まず第一に、一個人である。
次に、無能である。
そして危険人物と見なされる傾向にある。
その社会における信仰の傾向によっては神聖な存在とされることもある。
最後に、芸術的とされたりする。

まあ一口に精神障害者といってもほぼ健常者から寝たきりに近い人まで様々
のはずなのだが、上に並べたものを順番にいってみる。

精神障害者は一個人である。
当たり前の話で、論じる価値に乏しい。
精神障害者は食うなウンコするなという社会は国家規模では無いだろう。
もちろんそれをする場所は選んでもらわなければならないが。

精神障害者は無能である。
これについては反論があるかも知れないが一般に食料生産や工業生産、
あるいは頭脳労働といった面で健常者と言われる人達よりも生産性が劣るか、
生産性があるにしてもそれを発揮するために必要な環境条件が
健常者よりも多く必要になる。
食料工業生産力が余っている場合は問題視される傾向が少なく、
それらに乏しければ場合によっては問題とされることに。

精神障害者は危険人物である。
社会には人間同士の事故や事件を防ぐためにそれぞれが有る程度
意識無意識に様々な緩衝地帯を設けて生活している。
身内主義的に緩衝地帯を利用することが旧人達の間でコミュ力と呼ばれる傾向を
私は彼らの明文化傾向の無さと馬鹿にしていたりするが、これは余談。
精神障害者はこの緩衝地帯を理解せずまた他に理解しがたい独自の理由で
怒り出し暴れ出したりする、と見なされている。

精神障害者は神聖な存在である。
まあ運良くそういう位置付けに収まった人にとっては僥倖なのだろうが
その下に存在する社会にとってそれは暴君だろう。
役割分担として捉えるのは各人の自由だがそうした認識が
強要されるべきものとは思えない。

精神障害者は芸術的だ。
食うに困らない人が何をするのが正しいのかという問いの答えの一つに
芸術、というものがある。
ピカソ氏やゴッホ氏の絵は人類の共通財産と言えるだろう、
グーグル氏に問い合わせると画像が電線伝いにたちどころに集まる。
絵がある。
絵を見る。
見る絵が多い。
多くの人がそれらを見られる、
これすなわち豊かさである。
芸術的に見えないにしても精神障害者は人間の精神の多様性の一端であり
存在それ自体が可能性(機能の欠落もそのの一つである)を現している。
ただし、それらは食えない。

その芸術性や宗教観から精神障害者は正しい、正義であると位置付けることは
資産の乏しい社会においてはサッカーのために野球を廃止する政策に等しいかと。
精神障害者の尊重は目的としてではなく結果として実現する、
そうあるべきものと思えるのだが、どうだろう。
まあ資産が多けりゃ多いで雑多な正義の下奪い合いになったりもするのだが。

乗換駅の立ち食いソバ屋に山下清氏が云々、と書いてあった。
先ほど調べてみた結果この文章を書いているのだが、これだったのかなあと。
印象に残ったものは他にもあり、それはまたそのうち。
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貧困について

2010-01-20 19:20:45 | Weblog
貧しきの
焦がれる先の
華やかさ
中身の無さに
貧困を見る

貧困の解決法は社会主義である、と貧困国では広く信じられている。
私は社会主義とは新興勢力を怖れる旧支配層が嫉妬層に媚びる時に興るもの
と考えている。
結果成長の芽は潰され社会は支配者以外総貧乏となり、
嫉妬で活動していた人達の一部が達成感を得る、という状況となる。

貧困の解決法は成長である。
昔は一日二回の食に乏しいことを貧困と言ったが
今は週一回ゴルフに行けないことを貧困という。
成長によって貧困は少しずつ解消していく。
だが既得権者は成長する人を怖れ、毒を撒くことで枯らそうとする。

周知の通り、貧困の定義は変わっていく。
食べるものが乏しいことだった貧困は米が食べられないことに変わり、
米が食べられないことだった貧困は肉が食べられないことになり、
肉が食べられないことだった貧困は今日では
キャビアが食べられないことを意味するようになった。

じゃあ貧困ってなんだろうとなる。
まず食べられない貧困。 この意味は今も有る。
それ以外が食べられる貧困、例えば、結婚出来ない貧困、
子供が学校で、自分をみすぼらしいと感じる貧困、
教育内容理解度の面で進学上不利に働く貧困、
外見や企業社会の常識とされるものから就職上不利に働く貧困。
後になるほど無能を貧困と言い換えているだけなのではと思えてくる。

社会には評価がある。
他人をどう評価するかは、個人の自由である。
お金が多いほど高い評価を得る手段が多い。

そんなもの私の知ったことではない。

政治は職の数と家の数と机の数を増やせ。
足りないところで増やせ。
それ以上は個人のすることに関わる必要はない。

ナイジェリアで衝突。
http://english.aljazeera.net/news/africa/2010/01/2010119135631230684.html
宗教ギャングの抗争らしい。

州補選、共和党候補勝利。
http://cnn.co.jp/usa/CNN201001200009.html
保険が切れている私が言うのもなんですが、
国民保険制度は有った方がいいかと。

市有地を神社に、違憲判断。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10015099581000.html
憲法判断上は、正しいのでしょう。
これでキチガイ外患勢力が町内会乗っ取りに向かって動き出すことに。
それを防ぐ方法作れればいいのだが、今の衆議院では無理かと。
原告はキリスト教徒とか。

なるほど。
日本のキリスト教には私の敵がいると。
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死の部隊について

2010-01-19 17:26:54 | Weblog
富豪あり
金が欲しくて
麻薬植え
流れる先は
富豪の財布

今の私は犬と音楽家を不当に扱っている、そう思っている。
何故不当に扱うのかと問われればそれぞれブリーダーや芸能界といった存在が
本当にろくでもないものだと感じているから、と答える。

さて死の部隊をグーグル氏に聞いてみたところ、アメリカ企業の名前が出てきた。
そこに対立軸を見るわけだ。

資本家と労働組合。
帝国主義と分裂主義。
正規軍と麻薬軍。
文明秩序と固有文化。
責任と無責任。
維持と妄想。
因習と無神論。

アメリカ大陸地域における死の部隊がどういった経緯で出現したか書いてみる。
まず帝国主義があった。
帝国主義体制が崩れて資本主義とマルクス教の対立という構図が浮かんできた。
資本主義が社会のシステムとなっていたアメリカ合衆国の、それを維持するべきもの
と感じている人達はマルクス教を邪教、あるいは疫病の類と捉えた。
一方中南米諸国は戦後の初期、アメリカの帝国主義体制に組み込まれていた。
資本主義に被支配継続の意味合いを強く感じた彼等にとって、マルクス教は
「良い物」に思えたと。
邪教勢力の拡大を防ぐ、あるいは帝国主義体制温存のためにアメリカが
取った手段の一つが「死の部隊」だったと。
そしてその構図は今日、反政府運動や麻薬戦争に横滑りしているわけだ。

簡単に書くと、死の部隊はテロだったが麻薬戦争の目的は正しい、
こうなる。

さて麻薬戦争における先進国の正しい戦い方は、
麻薬を買わないことである。
それは日本で実践された。
北朝鮮との交易停止がそれである。
これに対する反応からやはりマルクス教は邪教だった、
との結論に到るわけだがそれ以外の方法ではどう正邪を見分けるか。
敵意の方向で判断出来るのではと考える。

無神論に近い人達を警戒するべきだ。
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かぶりものについて

2010-01-19 01:04:41 | Weblog
ふさふさな
ものを求める
つるつるの
近さ遠さを
枕元見る

物理的には意味のない数字に意味を見出そうとする、
物音、鳥や犬の声、人や車が目の前を横切った、そういったことで行動を決める。

最近の私の行動は社会的には、迷信深い人のそれと大して差がない。
そういう行動を取る理由は別に幽霊や悪魔や大宇宙の電波とかではないのだが。
自分の後ろでどこかを指さしている、
それを自分が感じたのか感じていないのか判断が付かない、
そういう前提で行動しようとすると、そうなってしまう。

本に書かれている「男は女のかしら」云々について納得がいかない
と考えていたのだが前回書いた「毒にしかならない」という意味なのかも、
とふと思った。
なるほど。
別に男女で分ける必要は無いが、家長制度、責任者、考える人、
そういった役割分担が有り役割を持たない人は日頃は考えようとない、
人間社会はそうなっている、としての言葉なら納得がいく。

言っちゃなんだが私は頭が良いと思っている。
大学で教鞭を執っている中の平均くらいの人間が、低く見える。
もちろん理系の専門分野などで追いつくためには相当な努力が必要だろうが、
同じ場所に立ったら私以外の人は見える範囲が狭い、私が気付く物に
気付かない、考えてたどり着く場所に届かない、そう感じる。

私は考えるに必要なものを与えられている。
では私は考える人としての責任を果たしているのか。
一応ここで書いている。
考えている。
考えたことを書き続けている。
ただそれ以外の時間、考えていない時間が結構ある。
起きている時間の半分くらいこのブログに何を書くかについて考えている
ような気がするが、それ以外の時間は割と遊んでいる。
20のものを与えられて10、或いは5くらいしか出していないのでは、
と最近思っていたりもする。

今の私は、知ることが出来る、見抜くことが出来るとは言えても、
私が正しいから従え、と言える地点には届いていない。
そもそも届くのかどうか判らないし届いたとしてもこのブログの読者に対して
そう言うのが正しいのかどうかは判らない。
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ハイチについて

2010-01-18 23:27:32 | Weblog
生真面目に
考えるほど
世の中の
役に立たない
自分の軽さ

ハイチの病院大半が崩壊。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100117-OYT1T00876.htm

米国とオランダ、養子手続きを迅速化。
http://cnn.co.jp/world/CNN201001180015.html

ハイチ大地震、というかポルトープランス圏直下型地震に見舞われたハイチですが、
最貧国の一つと言われているようです。
そんなわけでハイチについて書こう、としたのですが
死の部隊とか開放の神学とかの単語が出てきた。
これらについては調べて考えてからでないと書けない。
ただしそれらをもって単純に「アメリカが悪い」とする気は無い。
大仰な主義主張は考えの浅い人達にとって毒にしかならないように思える。

とりあえず私は注目しているのでハイチの救援を行っている国々は
そこに住む人達が良くなるように行動して下さい。

カブールでタリバンの攻撃。
http://english.aljazeera.net/news/asia/2010/01/201011854446990817.html
タリバンは支持出来ない。
現政府による安定が実現するべきと見る。

最近鳩山首相が「腐敗した民主党を国民が選んだ」との意味の発言をしていますが
有る意味で正しいんですね。
まあ、それと今何をするべきかとは関係がありませんが。
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ヴァンダリズムについて

2010-01-18 19:36:13 | Weblog
目に付いた
物を汚く
することで
何が得られて
何失われ

パロマレスの話、実は昨日1966という数字を目にし意味があるかもと記憶、
それを調べたところ行き着いたものだった。
で今日、それに近い状況で365という数字を拾った。
調べたらスティリコ氏の名前が出てきた。

アンダルシアの語源はヴァンダル族だそうな。
ヴァンダル族そのものはヴァンダリズムとして名を残していると。
文化破壊をユーロピズムと呼ぶようにするみたいな話か。

綺麗な物を壊すことをヴァンダリズムと言うそうな。
綺麗かどうかの判断は個人の感性によるわけで
健康な人間の内臓を美しいと見る人もいれば悪趣味とする人もいる。
人体模型が特に理由もなく公道にあったとしたら、私は奇妙に感じるが。

さて「綺麗」が私見だとしよう。
だとするとヴァンダリズムは一定の人が綺麗とする私物や公共財産を
破壊したり汚染したりする行動、ということになる。

公共物を汚染する。
他人の私財を破壊する。
何故だろう?

こう考えてみる。
人には縄張り意識がある。
テリトリー。
自分のテリトリー欲が満たされていないと感じている時に
他人のテリトリーを意味するように見える物に敵意が向かうのだと。
つまりは雄犬の小便。
では縄張りが無いとはどういう状態か。
これはこれで、課題なのだろう。

公共の壁に勝手に書かれたものをグラフィティなどと呼んだりするらしいが
私はそれは、芸術性が有ろうと無かろうと消されるべきと見る。
芸術性があるのならなおのこと。
何度でも消すべきであり、許可されていない場所で描く人間は補導されるべきだ。
絵が描きたいのなら画材屋に行け。
壁画が描きたければ田舎に土地を買って囲え。
見たい人間だけが見る、先進国ではそうあるべきだ。
じゃあ後進国は?
発展しろと。

私は都市の景観論には与しない。
自然を残すのは良いことだと思うが、人の領域については知ったことではない。
日本の町並みを景観が揃っていないと批判する日本人を時々目にするが、
それは彼等の劣等感の表れではないかと見る。

街を直せと言う前にその卑屈な精神を直すべきかと。
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