狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

地球温暖化対策について

2009-09-25 23:52:22 | Weblog
あったまる
たまのまわりの
みずまわり
いまをみずして
いさかいのひま

金曜日の日没から土曜日の日没まで特に理由がない限りブログを更新しないということを
数ヶ月してきたが、先々週から止めてみた。
感想なんだが、一週間のメリハリが無くなる。
あまり良くない。

オバマ氏の批判だそうな。
http://cnn.co.jp/world/CNN200909250015.html
私はその点についてははダブルスタンダードではないと見ている。

ムガベ氏が欧米を批判。
http://cnn.co.jp/business/CNN200909250025.html
仮に矛先の向きが正しいとしても、持ち手が守る物が正しいとは限らないのだが。

一週間の出来事を振り返って見てやはり、今回も正しかったのだなとの考えに到る。
取られる者は幸いで、見送る者は身を引き締める。
過ぎ去ってからそう思うようになるのは毎度のことで、
その都度自分の気付かなさを知るのだがどうあろうと私は私。
私の書いたことは私が書いたこと。

それはそれでいいとしてもここを読んでいる人たちは怒らないのだろうか?
知恵も地位も有り知識も社会経験も豊富な人たちが
雁首揃えてこうでもしないと動かないと見なされている、ということになるのだが。

さて、地球温暖化対策について。
私が怖れているのは寒冷化の方なので、温暖化について特に言うことは無い。
西欧や北米沿岸部がテレビの日みたいになるかもしれないが
日本の場合はそうなたっとしても、積み上げる土嚢の量が増えるだけ。
コタツで蜜柑を食べながら今年来たのは結構大きかったね、とかで過ぎる地域が大半。

そういう意味で私は温暖化対策議論を、教室でもなく台所でもなく、
納屋でもなく畑でもないと見なしているわけで。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教について

2009-09-25 11:07:47 | Weblog
人生の
生産は今
このブログ
信仰故か
ライフワークか

原発の停止作業だそうな。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/4596.html
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/news/20090924-OYT8T01305.htm
燃料からの放射性物質漏洩ってことは、一次冷却水に燃料だか燃えカスだかが混じったとか?
だとすると元々中性子を浴びるところのはずなのでそれ自体は危険でも無さそうな気がするが、
ヒビか何かで燃料棒が変形する可能性はどうなんだろうと考えたり。

安全性よりも夏の電力供給を優先したのなら原発にあるまじき判断だが
試験運転中とのことだからそれは無いか。

さて国連総会で核無しを採択とのこと。
これは前進ですね。
核恫喝が外交の禁じ手にるとすると、核兵器は短期的には国家のお荷物になります。
そういう環境を作るためにも、これから開発する国にガンガン蹴りを入れるのが正しいかと。

イギリスが核削減を発表。
http://cnn.co.jp/world/CNN200909240015.html
相変わらず率先行動する国だ。
イギリスは今のままの方が国際的にはいいのかもしれない。

さて宗教について。
先日、宗教は農業の不確定さから生まれるとした。
まあ農業でなくとも共同体の生産に不確定さがあればその大きさに応じて
対策や備蓄の必要が生じるわけで、ここになんらかの形で共同体メンバーが
足並みを揃えることが求められてくるわけだ。

信仰は個人の経験から自然発生する。
偶然だったり、夢だったり、恐怖体験だったり。
それに対して宗教は共同体の必要性から生まれる。
信仰と宗教はスタート地点が違うわけだ。
共同体メンバー共通の恐怖体験がそのまま宗教化するケースもあるだろう
その場合は同じだが、継続的な宗教体系の維持にはつながり難いはず。

地方に行くほど宗教色が強まる。 一般に。
この理由は簡単で、辺境ほど生産の条件が厳しく、備蓄が困難になる。
条件が厳しいほど反生産的な行動を抑制する必要が強くなる。

都市部が非宗教的になっていく理由も同じ。
備蓄が簡単だから。

この考えをもう少し進めてみると、別の可能性が見えてくる。
詐欺という手法で他人の備蓄を奪うことを憶えた人間は以後、宗教が不要となり、
宗教的な人間、禁欲的な人間をバカにするようになってくると。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際連合について

2009-09-24 23:45:07 | Weblog
平和とか
人権とかの
響き良し
耳に届かぬ
遠くの苦痛

どうも私は他人の非行、乱行、無思慮、無分別にたいして殺意を持つように出来ているらしい。
幼稚園のたしか初日に、喧嘩し保母さんと口論していたはず。
人生の初期の時点ですでに「怒る人」だったことになる。

現在の状況は天国である。
好きなだけ食べて、好きな時に寝て、部屋に転がっているマンガやDVDを見て、
ネットを巡回して画像を見て、ニュースを見て憤怒をブログに書き綴る。
天国である。
部屋にいる限り、他人への殺意と戦わなくて済む。

私に批判されている人達にしてみれば私は、安全な場所から危険な場所にある国や組織を誹謗中傷する
ろくでもないヤツということになるのだろうと思う。
じゃあ危険な場所ってなんだと。

地震の多い場所か? ここがそうだ。
台風の多い地域か? ここがそうだ。
失業者の居るところか? ここがそうだ。
戦争やっている国か? それは人間の、国や組織の問題だ。

さて国連について。
今現在ニューヨークに偉いさん方が終結してなんやかんややっているはずですね。
国連は悪の組織として発足した。
原爆のトルーマン氏、虐殺のスターリン氏、腐敗の蒋介石氏らの作った組織である。
当時だれが国家元首だったのかハッキリせず創設にあまり名前が出てこない理事国などは
「悪の国連」とは関係が薄いかもしれないが、その設立目的が帝国主導の世界秩序維持にあったことは明白。

問題は現在の国連が、引き続き悪の組織かどうかである。
なんせニューヨークだ。
そういう意味で私は先のG4運動が失敗してある意味安心している。
国連が悪であり日本が常任理事国となっていた場合、日本を切らなくてはならなくなるのだから。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽について

2009-09-24 10:01:05 | Weblog
耳ふさぎ
口半開き
だだ漏れの
上げたつま先
いずこに向かう

私は人が死ぬのが嫌いです。
好きな人の方が少ないでしょうから別に珍しい話でははないでしょうけれど。

先日、先週のあるニュースを見て陰鬱になり目を瞑り、
考えるのと記憶を漁るのとの間の状態にいたところ変なイメージに出会した。
アニメのオープニングかなにかの映像というのが近いと思う、
これまでに見たことも聞いたことも無いもの。
長さが多分一秒くらいで、音楽がフルに付いていた。
なるほど映像と音楽は気分転換にいいらしい。

だが大音量で鳴らされるカーステレオや車内でのイヤホンの音漏れなどは
正直、理解不能だ。
あれは周囲の迷惑を承知でやっているように見えるのだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辺境について

2009-09-23 23:43:36 | Weblog
僻地にて
人影まばら
夜寒し
飯はいずこに
雨風しのぐ

辺境。
絶海の島、山奥、砂漠やジャングルの中、寒冷地の先などにある。
一般に中央に対し、中央から遠い地域を辺境と呼ぶ。

辺境は何故辺境か。
人口密度が低いからである。
何故人口密度が低いか。
農業が困難だからである。
農業が困難なのは中央に成りうる地域も同じだ。
中央との違いは何か。
農業そのものの困難である。

中央地域は最初農業が、比較的容易であった。 辺境に比べたらの話だが。
容易であったが故に人口が増え、その増えた人口が凶作時、災害時に問題となり
政治の必要が出てくる。
これが中央の困難。
辺境の困難は農業生産性の低さから工業化を可能にするための人口を
維持できないところにある。
とりあえずそう仮定する。

文明の進歩があるところで止まる。 働けど働けど。
固定化した自然の厳しさから因習化が進み、文化が固定化する。
孤立しているならばそれで済む。 良い悪いは別として。
だがそこに文明が進出してくる。

文明人から見ると辺境人の因習は理解できない。
因習体系全体では生活の知恵や秩序を維持するための宗教思想となっている
わけだが、個々にはただの野蛮風習である。
それを分析し知恵や維持を再発見することが可能か。
高度な文化識別能力、政治判断力を持った人物が長期間調査をしない限りは
困難だろう。
外部を知らない、先祖代々外部を知らないことが当たり前な環境で常識が固定された
辺境人達が自分たちの文化の因習を無くすことの意義を理解できるか。
困難だろう。

ようは常識が固定化されていない人間一定数に外部を見せることが必要なのだが
それで因習識別が可能になるわけではない。
長期的に外部に置くと外部の偏見に洗脳され、最悪文化抹殺の尖兵に成り下がるだろう。

辺境人として常識が固定化された人間から見ると、文明人はどう写るか。
辺境の困難さを理解せず、辛うじて成立している秩序を外部のすばらしさを吹聴
することで乱し、伝統の知恵を最初から理解できない物として破壊する連中。
災いの使者だろう。

抜き差しならぬ対立構造。
辺境の因習を放っておくか。 それも違うと。
じゃあどうするか。
1. 中央の圧倒的武力で踏みつぶし塗り潰す
2. 宗教や思想で分断し洗脳する
3. 経済体制に組み込みアメで懐柔し体制破壊
4. 大量の移民を送り込み文化抹殺
5. 研究し因習を選り分け説明し説得する

人類の歴史を見るに、1,2,3が大半で時々4。
ほげーほげー。

私は中央地域以外には住んだことがありません。
一時期陸の孤島と呼ばれるところで学校に行っていましたが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央について

2009-09-23 08:47:41 | Weblog
脆弱な
人肩並べ
鍬を振る
嵐の中の
蟻の隊列

道交わるところ市が立つという。
人が移動する時は大概、出発地があり目的地がある。
十字路に道は四本。 その内二つは出発地でも目的地でもない。
東西に行き交う人達にとって北や南へ向かう道の先は、
暫く行ったこともなく近く行く予定もない土地。
ここに商取引の可能性、つまり市が出来るわけだ。

市があると中央になるか。
必ずしもそうでは無いらしい。
西欧の国境を見るに、バナナを切り分ける形に線が走っている。
大きな市は経済の中心にはなるが、政治の中心になる条件はまた別と。

政治の中心はどこに定まるか。
これは簡単。 戦争の結果で決まる。
では戦争に至る個々の集落は何が決めるか。
農業である。

農業に豊作不作は付き物だ。
文明の最も基本的な営みであるにも拘わらず、
天災や人災に対する脆弱性が産業のそこかしこにある。
そこで政治が必要になってくる。
リスクの分散、労働の配分、資源の管理、対外折衝、資産防衛。
これらの多くは農業のために生まれ磨き上げられてきた。
農業生産の余剰から宗教が生まれたという話を以前目にしたが
私は違うと見る。
宗教つまり意思の統一の必要性を産んだのは、農業の脆弱性だ。

中央は農業から生まれ、その政治必要度に応じて圏が決まる。
必要度が高ければより多くの政治装置が生み出され、支配圏が拡大する。
圏同士が重なると戦争になり、負けた方は必要の放棄を迫られる。
塩を撒かれたカルタゴ。

こうしてみると西アジアの混乱はイスラム教中央がキリスト教中央に負け、
必要性を制限された結果となる。
じゃあイスラム圏の、制限された必要性はなんなんだろう。
交易ルールか文化の正邪か、あるいは産業の斜陽化か。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アフガニスタンについて

2009-09-22 23:40:24 | Weblog
西の山
相変わらずの
ニュースあり
未だに揺らぐ
緩衝地帯

日本のアフガニスタン情勢関与の方針が決まりそうな。
これまで亡くなられた人達のこと、残された人達のこと、
これからそこで育つ人達のことを考えるとやはり、安定が必要と。

日本ではもっぱら議論の方向がアフガニスタンへの関与が
日本や日本人にとって安全かどうかになっています。
アフガニスタン人にとってプラスになるかどうかではなく。

アフガニスタンが何故安定しないかを考える。
高地にあること、土地が痩せていること、
交通の要所であること、どこの中央からも遠いこと。
つまり、人の移動距離は短く、農業の生産性は他の地域より劣り、
地域に出入りする人は多く、定住者に集約された情報が入りにくい。
言い換えると、教育水準は低い状態で固定化しやすく、
一般の農産物で外貨を稼ぐことは困難である、
にも関わらず外部から来る煌びやかな物が通過し嫉妬を煽り、
情報が固定化しやすく迷信や因習が蔓延りやすい、となる。
悪条件の揃った、困難な僻地か。

日本の高地の僻地はどうか。
国や県が道路を造ったり学校を作ったりしている。
これで雇用も出来るし教育水準も維持され、公務員が住んだり
若い人間が都市部に出稼ぎに行くことで現金収入が地域に入っていくる。

スイスの場合はどうか。
水があり工業化している。

ネパールの場合はどうか。
グルカ人などが出稼ぎしている。

ブータンの場合はどうか。
宗教の幸福に生きている。

つまり、なんらか形での精神的安定、教育水準の向上、
地域で消費するだけの農業、周辺地域への出稼ぎの容認が必要、となる。
まあそれらをやる前に地域の安定が必要なのだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国語について

2009-09-22 20:23:22 | Weblog
日本語で
文章を書く
書き慣れた
思いつくまま
文字を並べる

国語。
国民国家において言語の標準化を図るのが国語教育である。
目的はメートル法なんかと同じ。
家庭内の意思疎通なら家庭語で、近隣住人とのやり取りなら村語で、
それぞれ困らない。
国語は国民語教育である。
よってそこでは個性化では無く、没個性化が求められる。
そうでないと教育の意味がない。

では国民語教育の到達点はどこに設定するべきか。
報告書の作成能力。
現在の日本の国語教育が報告書の作成を目的とした方向を向いているだろうか。
否だろう。
ここに別の思想を見る。
国語は文学であると。

英語、イギリス語はシェイクスピアだそうな。
シェイクスピア氏の作品群が正しい英語だと言われている。
スノビズムである。
イギリスの国語はCockney Englishをベースに、
国際英語ならHinglishを導入するべきだ。

日本の国語教育は漢字に始まる。
それと平行するように手紙のような文章作成がある。
それはいい。
だがその後に小説文や感傷論に進む。
特定作品の感傷文章が標準化に用いられる。
業務文は蔑ろにされる。
教育からの逸脱。
そして古文が始まる。
本来なら大きめの本屋の片隅、普段人の来ない一角の埃を被った本棚の
一段の三分の一程度に収まっていて然るべき、実生活上意味のないものが
本来の目的である報告書作成を押しのけて教育の一部にましましている。
そんな余力があるなら公衆衛生や機械操作、世界史や交通道徳でも教えるべきだ。

何故こうなのか。
何故こうなったのか。
これは失業対策だったのではないだろうか。

日本の国語教育の後半、文系教育の中心にある巨大権威構造物は
失業傾向にあった儒教徒不満人に雇用を与えるためのケインズ政策の、
その残滓に過ぎないと。

ここに日本の病巣を見るわけだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

算数について

2009-09-21 23:49:45 | Weblog
算数が
苦手な人が
横それて
感情論が
積もる世相に

小学校の数学を、日本では算数という。
英語でmathsとnumericの違いに相当するのか。
私はこれを目的合理思考涵養の要でありそして、
現在の学校教育、教室による愚民化の中心であると見ている。

教室が愚民化装置となるモデルを考えてみる。
1. 生徒が思考する困難にぶつかる
2. 困難にぶつかった生徒が困難を乗り越えた生徒に助けられる
3. 助けられることが常態化する
4. 自助努力を放棄する
5. 思考の放棄が常態化する

どの程度正しいか、当て嵌まるかは知らない。
あくまでモデル。

しばらく前に百マス計算という教育方法が流行った。
足し算の繰り返しを行い、速度向上を測るものである。
生徒一人一人が伸長を実感できることがメリットとして言われていたがわたしは
困難ではないこと、周囲を頼ると逆に記録が落ちることなどをメリットと見る。

さてモデルに戻ってどうすると愚民化にならないか、考える。
・困難でなければいい
・他の生徒が助けなければいい
・自分でやることが常態化する
・自分の困難が何であるかを見つめるよう訓練する
・常に考えるようにする

困難でなくする。
算数ならば 5*2 の前に 5+5 を、23+48 の前に 10+10, 19+2 の問題を置けばいい。

他の生徒が助けない。
一人一人違う問題を与えると明言し、そうすればいい。
計算問題の数字をランダムにする。 コンピュータを使えば実現は簡単。
そうすれば他の生徒が助ける時、労力が助ける量に応じて増える。

自分でやる。
当たり前。

困難を見つめる。
生徒が陥る困難リストを生徒に見せる。
あとは勝手に生徒が判断する。

常に考えるようにする。
失敗の傾向分析のやり方をマニュアル化して生徒に渡す。

並べてみたがこれ予定通りの結果が出ない事への対処法、まあ正しければだが、
であって計算能力、思考力を伸ばす方法では無い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワーキングプアについて

2009-09-21 22:03:09 | Weblog
働けど
良くはならぬと
便所紙
上が悪いと
テレビが叫び

日本にワーキングプアなんて居ない、と言ったらどう反応します?
フリーターの収入は一人で食う分には充分だ、
その収入も一般農家収入の多数値を上回っている、
賃金が社会保障水準を下回るなら国に集ればいい、
などが理由つまり、一人で食うには困らず、
水準的にはそれほど貧乏でもなく、働かないという選択も可能と。

この観点で行くとワーキングプアは貴族化した左翼マスコミによる造語、いうことになる。
と言っても現状がまともかというとそうは見えない。
一方にバブル期に決まった給与水準をむさぼりそのことを疑問に思わない連中が居て、
一方に氷河期に下がったままの給料で働いている連中が居る。

バブル人筆頭であるマスコミ人がワーキングプア造語に出た理由はさしずめ、
左翼イデオロギー衰退から来る地位の低下を怖れての兵隊収集行動だろうと。
多少先は読めるってだけで悪質さに差は無し。

じゃあ収入格差は何か。 農家との比較で考える。
農家は飯代がかからない。 都市部在住者の食費が収入の半分とすると、
同収入の農家は他の用途に金を倍使えることになる。
農家は家持ちだが氷河期人の多くは自分の持ち家無しだ。
農家は飯には困らない。 嫁が来ても食わすだけは出来る。
都市部の男性にとって嫁の存在は純粋に出費だ。 何故だか不明だが。
農家なら育児中も作業分担が用意だが、都市部で共働きだとどっちかが休業となる。
家が広ければ衣類はお古で済むが、都市部在住で収納場所が限られていると
子供の成長に合わせて買うことが現実的になる。

つまり収入の問題もあるが、出費の問題がより大きい。
そしてマスコミは、出費を煽ることを金儲けとしている。
ワーキングプアを叫ぶ彼らは問題点をずらしたいのだ。

では都会人同士を比べてみよう。 バブル人と氷河期人を想定。
バブル人は四輪で移動。 氷河期人は電車と二本で移動。
バブル人はゴルフをする。 氷河期人は漫画を読む。
バブル人はゴンドラ結婚式。 氷河期人は市役所でハンコ。
バブル人はディスコでシャンパン。 氷河期人はモニターの前でコンビニケーキ。

バブル人の収入源は、ステータスである。
社会システムに乗っかっていれば金が入り、そのステータスの維持と競争に
きらびやかな生活が必要とされる。

無駄である。

最近福祉だ手当てだと騒がしい。
そういったものが配られても多くは酒と煙草とパチンコに消えるのだろうな。
ま私には関係のない話。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする