goo blog サービス終了のお知らせ 

海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「イスラムは文化としては没落するだろう」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2010年09月10日 | イスラム問題
ハマド・アブデル=サマドは、五人の子供の第三子としてカイロの近傍に生まれた。彼の父は、スンニー派のイマームである。四歳の時、15歳児から暴行を受けた。彼が11歳だったとき、彼はもう一度少年のグループから暴行を受けた。1995年に23歳で彼は潜在的な反ユダヤ主義者で西欧に対する懐疑家としてドイツにやってきた。
アウグスブルクでの政治学を勉強している間に、変換のプロセスが始まった。西欧を憎む者からリベラルなイスラム改革者への変貌と彼の問題の多い子供時代とをアブデル=サマドは、自伝的な書物『私の天国からの別れ』の中で手を加えた。それは彼を故郷におけるファトワに導き、警察の保護が必要になった。
彼はユネスコのために働き、エルフルトのイスラム学の講座や、ミュンヒェン大学における「ユダヤ史とユダヤ文化研究所」の仕事を与えた。彼の二番目の書物『イスラム世界の没落』、は、ドイツの本屋に現れた。(ドレーマー・クナウル社、18ユーロ)アブデル=サマドは、コニーと結婚しているが、彼女の母親は日本人で父親はデンマーク人である。彼らはミュンヒェンに住んでいる。
ハメド・アブデル=サマドは小声で思慮深く語る。
ヴェルト・オンライン:あなたは新著の中で、自分は信仰から知識へと改宗したと書いています。それではあなたは知ってはいるが、無信仰なのでしょうか?
アブデル=サマド:いいえ。私にとっては、個人的な信仰は話すできではない事柄です。本来、信仰はどんなカテゴリーにも当てはまりません。私はたいていのムスリムが今日解釈するようなある信仰から改宗しました。つまり、閉じられた建物としての絶対的真理としての信仰です。しかし、信仰は私にとっては、「常に探し求めること」を意味しています。
ヴェルト・オンライン:つまりそれは、どの個人も自分自身と信仰を取り決めるということであって、自分によって指名された権威から生じたのではないということですね。
アブデル・サマド:そのとおりです。出来合の答えや出来合の真理ではありません。私は信仰から知識へと改宗したのは、私の宗教・歴史・言語についてより多く経験し、それと批判的にたいけつしようと試みたからです。これこそ現在イスラムが非常に必要としているものなのです。(以下略)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「テリー・ジョーンズは、ケルンの教会で「霊的悪用」を非難された

2010年09月09日 | イスラム問題
世界中が息をのんでいる。
9月11日にテリー・ジョーンズと彼の同僚は、フロリダ州ゲインズビルにある教会の敷地で数百冊の『コーラン』を焼こうと計画している。
ホワイトハウスは、この計画を断罪し、世界中のムスリム団体は、焚書が行われて場合、その帰結について警告した。しかし、この教会は計画を実行すると言い張っている。
当然、過激なイスラム嫌いたちは、自分たちの熟慮された挑発が暴力的な抗議と暴動を引き起こすことをよく知っている。しかし、彼らは自分たちには責任はないという。何人かの「コーラン」焼却者は、ブログに次のように書いている。「小さな町の小さな教会がその敷地内でコーランを何冊か焼却することは、われわれの抗議に対する報復として誰かが企てる暴力行為に対して責任はない。」
この行動の背後にいる男、テリー・ジェームズは、「ダヴ・ワールド・アウトリーチ・センター」の牧師だ。それは、福音派の過激な周辺のメンバーである50人の日曜集会に注意を引きつけようとしている教会だ。口ひげをたく蓄えた元ホテルの支配人であったジョーンズは、「イスラム教は悪魔の産物だ」と題する攻撃的な書物の著者でもある。(後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シリア、ムスリム保守派の影響を制限しようと動く」と題する『ニューヨーク・タイムズ』の記事

2010年09月04日 | イスラム問題
ダマスカス発:イスラム主義グループとの連帯を示そうとし、公的生活で宗教者により大きな役割を許そうとしてきたこの国は、最近、その路線を変更し、モスクや公立大学や慈善におけるイスラム保守派の影響を抑えようと動いている。
政府は、イマムたちに彼らの金曜日の説教の記録を提出するように求め、宗教学校を厳密に監視し始めた。影響のあるイスラム女性グループのメンバーは、説教したりイスラム法を教えるような活動を差し控えるように命じられた。この夏、ニカブやヴェールをかぶった千人以上の教師は、行政的義務に振り向けられた。
2008年に始まり、この夏、元気を得た取り締まりは、地域における過激派グループからの増大する脅威に直面して、シリアの伝統的な世俗主義を再肯定しようとするアサド大統領の努力であると役人たちは言う。
何年も保守派の台頭を許してきたシリアにとって、この政策は厳密な転向を意味している。そして、それは、海外ではハマスやヒズボラのような運動を支援しているのに、国内では政治的なイスラム主義者に反対するという一見矛盾した路線を政府にとらせている。(後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新たな内戦を防ぐ」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ・ネット』の記事。

2010年07月31日 | イスラム問題
2010年7月30日:五年間、このようなことは考えられなかった。レバノンはアサド・シリア大統領を歓迎している。ハリリ元首相の殺害後、レバノンを29年間コントロールしていたシリアは、非難のあらしの中、レバノンから出て行った。しかし、金曜日、アサド大統領は、空港から大統領官邸までの途中で、シリアとサウディ・アラビアの国旗に縁どられたアサド大統領とサウディ・アラビア国王アブドラの肖像画によって歓迎を受けた。
よりによって、「ハリリ特別法廷」の告訴状は、流血の対決に対する恐怖をレバノン国内に引き起こしたからだ。アサドとアブドラとは、緊張を緩和し、レバノン国内の平和を維持するために、一緒にベイルートに赴いた。
目の前に迫っているヒスボラのメンバーに対する告訴状は、この地域のカードを切りなおした。というわけは、シリアは、それによってライバルと距離を置くことができ、イランは、自分の核施設に対する攻撃の場合に、もはや、イスラエルに対する報復攻撃のためにヒズボラを頼りにしないかもしれないからだ。
彼らがダマスカスから飛び出す前に、アサドとアブドラとは、レバノンにおいて平和を維持するために何でもやるということで了解した。
それ以外に、彼らは対立する党派の間に相互信頼のあらたな基礎を作ることを望んでいる。ヒスボラが数日間ベイルートをコントロールした2008年5月のような対立は、繰り返されてはならない。彼らは、このメッセージをベイルートに伝えようとしてる。(以下省略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「協会とイマームとは切り離される」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』の記事。

2010年06月12日 | イスラム問題
6月11日発:移民統合局の陳述によると、「アフガン文化協会」とイマムのサイード・コバイブ・サダットとは分離した。「彼は、もはや協会のメンバーではない」とアルミン・ウンゲルン=シュテルンベルクは伝えた。報道によると、憲法擁護局は、サダットがイスラム過激派の立場を代表していると非難していた。彼の発言は憎悪の種を蒔くのに一役買っている。この件については、5月半ばから公に議論されている。協会はベルゲン・エンクハイムにモスクを建設し、そのうえ建物を改造しようと計画した。これまでは、協会は、フェッヒェンハイムに礼拝所を持っていた。
移民統合局のエスカンダリ=グリューンベルクは、フランクフルト市が、あらゆる宗教の会堂に、民主主義的社会秩序に対して誤解の余地のない告白を期待していると5月18日に協会宛に書簡を書いた。彼女はまた、会堂がその隣人達に対してオープンにつきあうことを期待していると述べた。これに対して、サダットは「過激主義的と評価される説教」によって目立った存在となっている。その際、問題は、憲法によって保障された自由な意見表明でない。市参事会員のエスカンダリ=グリューンベルクは、他のモスク会衆は、類似の件では、当該イマムと分かれているという点を指摘した。それでもって彼女は、グリースハイムにあるビラル会堂とハズラト・ファティマ会堂を意味していた。
 この書簡を、5月19日に、ウンゲルン=シュテルンベルクと多文化事業局の局長ヘルガ・ナーゲルとは、協会の代表団に手渡した。彼らに対しては、どのような限界があるか、良き隣人関係のための前提とは何であるかを説明した。6月4日に、代表団は、はっきりと「民主主義的社会秩序」を護ると宣言し、サダットとは分かれると告げた。
 ウンゲルン=シュテルンベルクは、「移民統合局の介入によって、三度目に、協会は、帰結を引き出した。この点はこの事件では、選択の余地はなかった」と述べた。「このような事件を取り扱う際に、協会の行為によって、すべてのフランクフルト市内の会堂が準拠すべきはっきりした線が形成され始めるのだ。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「若くて、モスレムで、暴力的」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2010年06月06日 | イスラム問題
ベルリン発:ある新しい研究報告が若いイスラム教徒の間の憂慮を引き起こす展開を確認した。それによると、イスラム教との結び付きが強ければ強いほど、一層暴力行為が増える。その上、宗教的でれあればあるほど、それだけマッチョ文化を受け入れ暴力的なメディアの利用が増大する。
このことは、連邦内務省と犯罪学者クリスチャン・プファイファーが所長を勤めるニーダーザクセン州の「犯罪科学研究所」との共同の研究プロジェクトの二度目の報告から明らかになった。
説明の手がかりとして、著者達は、トルコ系の宗教学者ラウフ・セイランの鑑定書を利用している。彼によると、ドイツ在住のイマム(説教者)の多数は、保守的イスラム教と自分の民族への後戻りを促している。大抵のイマム達は、一時的にだけドイツに滞在し、ドイツ語が出来ず、ドイツ文化に対して積極的な関係を築くことができない。彼らにとっては、男性優位は自明である。彼らの説教も若いムスリム達が同じ態度をとることを促進している。
このように記述された現象に対して責任があるのは、イスラム教自体ではないとプファイファーは言う。「これはイスラム問題ではなくて、イスラム教を伝達する問題です。イスラムの信仰は、「マチョ文化を受け入れること」と促進している。セイランは、この結果を説明するのに多くのファクターを引き合いに出している。トーマス・ド・メジール内務大臣は、記者の質問に対して、ハノーヴァーで出されたこの研究報告の結果は、「ドイツ・イスラム会議」での議論に提出されると伝えた。
「犯罪科学研究所」は、2007年から2008年にかけて、61の都市と地方自治体で、第9学年に属する4万5千人の生徒に質問した。重点は、宗教への所属と個人的な信仰が14歳から16歳までの生徒、特に若い移住民の統合にどのように関係しているかという問いに置かれていた。その結果は以下の通りであった。若いキリスト教徒は、信仰心が増大するにつれて、暴力行為を振るうことが少なくなったのに、若い男のムスリムの場合は逆であった。
どの宗教にも属さない若い移民のグループが最も良くドイツ社会に溶け込んでいる。「彼らは41.2%が高校卒業資格を目指しており、62.9%がドイツ人の友人を持っており、66.1%は自分がドイツ人だと感じている」と研究報告書の著者達は言う。若いムスリムの場合は、事情は違っている。彼らの15.8%しか高卒資格をめざしておらず、28.2%しかドイツ人の友人がなく、21.6%だけが自分をドイツ人だと感じている。
[訳者の感想]イスラム系移民の統合が全く出来ていないという結果が出たようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヨーロッパの終わり--ムスリムの統合についての見解」と題する『メルクール』誌の論説。

2010年05月19日 | イスラム問題
(前略)イスラム教徒に対する非イスラム教徒の適切な関係は、奉仕である。それに一致して、ムスリムは、ある非ムスリムに対して命令を受け取るという関係になってはならない。このような掟が教育領域や労働の場でどのような帰結を持つているかを想像するのは難しくない。ドイツ社会から孤立している場合、出身国の文化に過度に依存している場合、「ドイツ社会は、自分の社会だとは見られず、自分の社会のために利用し尽くされるべき被搾取社会と見なされる。説教者オマル・バクリが、イスラムは、非イスラム国家から社会保障を受けることを承認していると宣言する場合、彼がそれで意味しているのは、ムスリムが非ムスリムに課している年貢の取り立てである。社会保障をこのようにイスラム教的に解釈し直すことによって、それを受け取ることがノーマルであることになり、多くのムスリムがそれを悪用するようになる。(中略)
このような敵対的な態度の帰結は、非イスラム社会の内部にイスラム的空間を作り出そうとする努力となる。ルフトは、「民主主義的文化のためのセンター」の2004年度の研究報告を引用している。「彼らの多様な活動によって、イスラム主義的組織は、「イスラム化された空間」を作り出そうとしている。・・・ガドバンによると、進行中のイスラム化は、平行社会を固定化し、正当化している。「あらゆる世論調査の回答で明らかになるのは、人々はドイツ社会への社会的組み込みを想像することができず、彼ら自身の社会的環境を維持したいと思っているということである。」(後略)
[訳者の感想]ジークフリート・コールハンマーという人の書いた論説です。イスラム教徒をドイツの社会や文化に同化させることがどれほど困難かということがよく分かります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブルカと漂白クリーム」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2010年05月04日 | イスラム問題
ブルカ商人は立派な商業人である。しかし、彼はヨーロッパでは、非常に脅かされている。それに対する全く追随可能な理由が存在するけれども、自動車は禁じないだろう。なぜならば、自動車産業は恐らくブルカ産業よりももっと沢山のロビーイストを持っているからだ。
アブドル・ガフルは、カブールでブルカを売っている。薄青色のブルカが現在、濃青色のよりも売れ行きがいい。「一人の女性は、平均して1年に一着新しいブルカを買っている」と彼は言う。女性たちがブルカを着るのを止めたら、私は新しい職業を探すだろう。だが、私には常に女性の顧客がいるだろう。それがまさにイスラムなのだ」と彼は言う。彼は危機に対して安全な仕事を持っているわけだ。
 彼がブリュッセルやパリで支店を経営していないのは結構だ。
 誤解を防ぐために言っておくが、私はブルカは好きではない。私はただ、アブドル・ガフルが良い奴だと思っているだけだ。私たちはパキスタンに暮らしている。この國については、大抵の人が間違った考えを抱いている。ここでは、女性達は特に田舎ではブルカを着ている。特にアフガニスタンとの国境地帯では。
 イスラマバードでは、ブルカは、余り流行ではない。私の妻は多くの女性のように、体をすっぽり覆ってはいない。だから、彼女は白人であることがすぐ分かる。彼女にとっては良いことだが、私にとっては妙な結果が生じる。なぜなら、東南アジアの男達は、白人女性に関しては、ある強迫観念を持っているからだ。白人女性は、欲求する値打ちがあり、何でもする用意があり、言葉の最善の意味で、いかがわしいと見なされている。
 私が私の妻と町を歩いていると、ときどき、全く未知の若い男たちが私に目配せをする。それは「上手くやったね」という眼差しだ。彼らが私の肩を叩くということはない。「こいつは上手くやった」と彼らは考えている。彼らの顔には、「どうやって、あいつは白人の女を手にれたのか」という疑問が浮かんでいる。
 最近、私たちはある大きな本屋にいた。私たちは買い物を済ませて、私は買い物袋を手に持っていた。私の妻は、本棚の間を通って本を眺めていた。すると若い店員が私のところへやってきて、小声で「ちょっと個人的な質問をしてもいいですか?」と尋ねた。「勿論、良いよ。一体なんだい」と私は問い返した。すると彼は「この女性は、あなたにいくら払っているのか」と尋ねた。給与についての質問は、全く普通である。しかし、私はちょっととまどった。彼が何を目指しているのかが明らかになるまで数秒かかった。彼は、私を外国人女性のための召使だと思っているのだ。そこで、私は、「彼女のところへ行って自分で聞いたら。ひょっとしたら、君は僕のために給料値上げをやってくれるかもしれない」と答えた。今度はまごついたのは彼のほうだった。
「ねえ君、あれは僕の妻だよ。あれが何のために僕に金を払わなければならないのかね?」(後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エルドアン首相、メルケル首相がトルコを嫌っていると非難」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2010年03月29日 | イスラム問題
トルコ首相レセップ・タイイップ・エルドアンは、ドイツ国内にトルコ人高等中学校を巡る争いでしきりに勧めた。
 メルケル連邦首相の訪問を前にして、彼は、リビヤ訪問中に、彼女が自分の提案を拒否したと批判した。「なぜトルコに対してこんな憎悪があるのか。私には理解できない」とエルドアンは、先週末一緒にリビヤ訪問についてきたジャーナリスト達に述べた。「こんなことをメルケル連邦首相が言うとは予想していなかった。トルコはスケープ・ゴートなのかね。」
 メルケル連邦首相は、今週初めに、政治的訪問のためにトルコに来る予定である。アンカラでは、彼女は、アブドラ・ギュル大統領とエルドアン首相に会う予定だ。会談のテーマには、北大西洋同盟のメンバーであるトルコと欧州連合との間の遅れ気味の加盟交渉、イランとイスラエルを巡る中東地域の情勢、トルコとアルメニアとの間の困難な和解過程などが挙がっている。火曜日にメルケルは、イスタンブールを訪問する。これは彼女にとって二度目目のトルコ訪問である。
 彼女に同伴するのは、「キリスト教民主同盟」(CDU)の会派の議長、連邦政府の統合問題担当相であるマリア・ベーマーである。彼女も、学校論争では、「ドイツにおけるトルコ人ギムナジウムの設置に反対だ」と言明した。「われわれは、問題の核心に迫らねばならない。それは、長期間ドイツに生活する者は、成功するために、本当にドイツ語を良くマスターせねばならないということだ」と統合問題担当相は「国営第一テレビ放送」(ARD)に対して述べた。
トルコにあるドイツ人学校は、ドイツにトルコ人高等中学校を創設することを正当化することにはならない。「その上、既にベルリンや他の都市にはトルコ語で授業が行われている学校がある」とこの政治家は言った。「多くの人たちは、トルコ語が高校の卒業科目に入っていることを知らない。問題は、ある学校で生徒達がどのように構成されているかである。ここで生活している人々、つまり、子供達や青少年達が十分にドイツ語を話せないという心配があるのだ」とベーマーは言った。「それゆえに、しばしば、卒業しても、それが職業上の資格取得には結びつかないのだ。」
 ドイツ語の知識は、統合コースや初期の言語教育によって獲得されるだろう。「このことは、議論の余地はない。」エルドアン・トルコ首相は、ドイツにトルコ人高等中学校を設置することを要求したが、それはドイツの政治家や教師の拒否反応を引き起こした。(以下略)
[訳者の感想]なにしろエルドアンは、ドイツ生まれのトルコ人に対する統合政策が「人権」に反するとまで述べた人物ですから、ドイツ政府の統合政策にも真っ向から反対の立場を取っていると思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エルドアン、トルコ系ドイツ人を篭絡する」と題する『ヴェルト・オライン』の記事。

2010年03月17日 | イスラム問題
ベルリン発:2月に沢山のトルコ系ドイツ人のところに届いた招待状は、誘惑的な響きを持っていた。イスタンブール市内の5つ星ホテルでの昼食会、が予定されており、参加者の旅費は、すべてトルコ政府が負担する。招待状の表書きには「われわれ同胞がいるところには、われわれもいる」と書かれていた。
ヨーロッパの数カ国に居住する約1,500名の国外在住トルコ人が申し出に応じた。沢山の演説が持たれた。頭巾をかぶったベルギーの女性国会議員、企業の代表、NGOの代表などなどである。しかし、会合は、多彩な出会いだけではなく、ドイツ在住のトルコ系政治家の間に動揺を引き起こした。なぜならば、招待状の送り主は、保守的で宗教的な「AKP」の政府だったからだ。それは参加者にはっきりしたメッセージを告知していた。「外国に住んでいるトルコ人達は、新しい居住国の市民権を取得すべきであるが、それはその國に同化統合するためではなく、政治的に積極的になるためである」とレセップ・タイイップ・エルドアン首相は述べた。「二重国籍に反対する国々は、基本的人権に違反している」と彼は言う。彼の呼びかけの中で、エルドアンは、欧州諸国の「イスラム嫌い」を「アンチ・セミチズム」にたとえた。
 参加者達は、『シュピーゲル』誌に対して、更に、トルコ首相が二年前のケルンでの彼の演説における。「同化は、人間性に対する犯罪である」といいう激烈な批判を繰り返したと伝えた。ドイツにおける「アレヴィ派教区」の議長であるアリ・エルタン・トプラックによると、トルコ首相は、「われわれは、ヨーロッパ文化にトルコ文化を注射せねばならない」ともっと激しい表現をしたと言う。
 トルコ政府がドイツのトルコ系国会議員について、どのような理解を持っているかは、集会への招待状で既に明らかになった。そこでは、国会議員は、「わが尊敬する国会議員」となっており、エルドアンは、「われらの首相」と呼ばれていた。
 それゆえ、ドイツ在住のトルコ系政治家や宗教代表者達は、現在、アンカラに対して激しい批判を行っている。「あれは、全く明白なトルコ政府のロビー活動だった」とアリ・エルタン・トプラックは言う。「ドイツ系トルコ人は、トルコ国家の利害を代表すべてきだ」とトルコ政府があからさまに言うのを聞いてびっくりしたと。「トルコの欧州連合加入に反対しているドイツ人がいたら、自分たちが反対するための格好の材料を沢山見つけたことだろう。」(以下省略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イスラム批判は、ユダヤ嫌いとは比較できない」と題する『ヴェルト・オンライン』の論説。

2010年01月13日 | イスラム問題
世界の中のすべてのように、社会科学も流行がある。「ジェンダー研究」、「ホロコースト研究」、「メディア学」のような研究分野の設立は、必然性から生じるのではなく、単に時代精神を反映しており、それは、アリス・シュヴァルツァーやシャルロッテ・ロシュに位置を提供している。
偏見研究の下部分野である社会心理学も、時代精神を免れてはいない。目下流行しているのは、「アンチセミティズムとイスラム嫌い」についての研究であり、その代表者は、自分たちが一方を他方と同等に扱っているのではなく、比較しているのだと保証している。「比較をする」ということは、学問的に保証された確かな方法であると彼らは言う。
それは正しい。原則的に、何でも比較することはできる。国防軍と救世軍、ビキニとブルカ、「公共ラジオの料金徴収センター」と「ナポリに本拠があるマフィア」とは、比較可能だ。
それゆえ、理論的には、アンチセミティズムとイスラム嫌いとを比較することはできる。一方は、少なくとも2000年ぐらい古い現象であり、他方は、30年前にホメイニ師によってつくり出されたとしても。実際上、比較によって、モスレムは、現代のユダヤ人であり、いわゆるイスラム嫌いは、構造的にアンチセミティズムに似ているという結果になる。河馬が人間といくつかの共通点を持っていると考えるなら、それは、全く間違っているとは言えない。それは餌を食べ、眠り、消化し、生殖を行う。
彼らを否定するために、類比を呼び出すこと、それがホーマンの方法である。元CDUの国会議員ホーマンは、ある演説で、一時間かけて、歴史上のユダヤ人の悪業を報告し、最後に、ユダヤ人はひどい犯罪に責任があるけれども、丁度ドイツ人をそう称すること出来ないのと同様、ユダヤ人を加害者民族だと称することは出来ない、と述べた。これこそ彼の類比に基づく論証の目的だったが、それは大胆であると同時に恣意的だった。
ドイツ統一の日の式典への派手な登場のせいで、このフルダ市選出議員は、CDUから除籍され、さらに連邦議会の議席を失った。しかし、彼はそこから何も学ばなかった。
彼は、そうこうするうち、真面目な学問の世界で応用される模範を提供したがゆえに、ホーマンを思い出さねばならない。歴史家で、ベルリンの「アンチセミティズム研究センター」の所長であるヴォルフガング・ベンツは、一週間前、『南ドイツ新聞』に寄稿し、そこで19世紀のアンチセミティズムと21世紀のかなり多くの「イスラム批判者」の間の類似性を指摘した。
それをする権利が彼にはある。しかし、小さなジブクが彼の持ち物に手を出したかとベンツ教授に質問する十分な権利が読者にはある。たとえば、20世紀のアンチセミティズムの痕跡がまだいたるところに見られるのに、彼はなぜ19世紀のアンチセミティズムに限ったのか。
彼はなぜ彼の研究所でも使用される「イスラム嫌い」という概念を断念し、その代わりに、19世紀のアンチセミティズムがユダヤ人を中傷したと同様に、モスレムを中傷するイスラム批判が疑わしいと仮定することによって、「イスラム批判」について語るのだろうか。「ユダヤ人敵視の偏狭さについて腹を立てる人は、イスラム敵視も批判的に見なければならない」とベンツは言う。
だが、19世紀のアンチセミティズムの研究から得られた洞察が、21世紀の現代のアンチセミティズムを研究するのに役立ってはいけないのか。(中略)
アンチセミティズムがヒステリックな不安や虚構や投影や嫉妬心に基づくとすると、「イスラム嫌い」には、現実的な根拠がある。それは、自分たちの信仰を引き合いに出すイスラム教テロリストのテロ攻撃であり、伝統に基づく名誉殺人であり、アフガニスタンにおけるタリバンの憤激であり、姦通したものの石打刑であり、サウディ・アラビアで行われている児童との結婚であり、同性愛者の絞首刑であり、イスラムが「平和」を意味していることへの固執であり、人質の処刑をテレビで流す場合に犯人が用いる野蛮とハイテクとの混合である。(後略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イスラム教国でのキリスト教徒の運命」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年12月07日 | イスラム問題
イスラム世界は、またもやショックを受けた。モハメッドの戯画、レーゲンスブルクでのローマ教皇の説教、そして、今度はスイスにおけるミナレットの禁止というわけだ。宗教的に動機付けられた憤激のキャンペーンがいつでも発動可能である。トルコの外務省は、先週火曜日に、国民投票で人権と基本的権利とを傷つけたとスイスを非難した。
トルコ大統領アブドラ・ギュルも、ミナレットの反対決定を「スイス人の恥じ」だと鞭打った。この投票は、「どれほど西欧世界のイスラム嫌いが広まっているか」を示したと彼は言う。レセップ・タイイップ・エルドアン・トルコ首相にとっては、国民投票は、「ヨーロッパにおける増大する人種主義的ファシズム的態度」の表現である。
「宗教と意見の自由は、投票にかけられてはならない人類の基本的権利である」とトルコ議会でエルドアンは述べた。
 キリスト教徒のアルメニア人に対する虐殺の否認を国是としている国を支配している政治家のこのような激しい発言をどれほど真面目に取ったらいいのか?しかも、トルコは、宗教的少数派に対して自由な宗教的実践を拒んでいる国なのだ。
 自由なスイスにゆがんだ鏡を突きつけているのは、最も不寛容なアラブ人国家である。サウディ・アラビアの「イスラム会議機構」は、スイスの国民投票の後で、直ちに「人種主義的極右の政治家たち」による「反イスラム的扇動」だと発言した。
 エジプトの最高の法律学者であるアリ・グマは、ミナレットの建設禁止の中に世界中のムスリムに対する侮辱を認識したがっている。イスラム化の大波に洗われているインドネシアでは、国民投票を「ムスリムに対するスイス人の憎悪の表れ」だと見なした。
 このヒステリーは、西欧に対する増大する優越感の表れか、それとも、イスラム原理主義の攻勢が始まっていることの警戒すべき兆候であるのか?
 イスラム世界では、キリスト教徒は、大きく差別されており、死で脅かされている。プロテスタント系の通信社が出版した『殉教者2008』は、イスラム教で形成された6っつの国をもっとも攻撃的な宗教的弾圧をする10の国家のうちに数えている。最悪の例は、イラクで、ここでは6年前のサダム・フセインの没落以来、数千人のキリスト教徒が殺され、何十万人かが急いで国外に脱出しなければならなかった。今年だけで、7つの教会への放火とキリスト教徒に対する襲撃によって、何ダースかの人間が命を落とした。
 このような暴力の行き過ぎから見ると、トルコにおけるキリスト教教区の状況は、あまり脅かされていないように見える。もっとも、過去数年間に、熱狂的なスンニー派による司祭や教団の尼僧や宣教師に対する残虐な殺害が重なっているのだが。
 公式には、トルコでは、宗教の自由が支配している。だが、あいかわらず、多数の差別が存在する。たとえば、牧師や宗教教師の養成は国家によって禁じられている。キリスト教徒の学生は、神学をイスラム神学科で学ばねばならず、牧師は、トルコ国籍を持っているか、外交官であることが証明できなければならない。古い教会の修復は、法的な措置で難しくされており、教会の財産の没収は日常茶飯事である。
 キリスト教徒は、宗教的儀式の自由を享受しているムスリムにたいして、根本的に差別されている。聖書や宗教的論文は、街頭で配布されてはならない。街頭での行列やキリスト教的祭りは禁じられている。役所はキリスト教系のラジオ局に基本的に認可を与えない。(後略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トルコ人移民は犠牲者の立場に逃げ込んでいる」と題するネクラ・ケレクの論説

2009年11月25日 | イスラム問題
 あなた方がご存じのように、私はトルコに生まれ、1967年に10才でドイツへ来、ドイツ国籍を取得した。この経歴を私は何千人もの移民と共有しているが、私は次のような問いを自分自身に問わねばならない。私は私がドイツに来る前の1933年から1945年までにドイツで起こったことに対して責任があるだろうかと。何十年も前にトルコで起こり今日起こっていることが私に関わりがあるだろうか。
 私のトルコ系同胞の多くは、特に若い人たちは、今日、自分で選んだ歴史を持たない状況、無責任状態のなかで生活している。彼らはトルコの歴史や現状を知らずそれに影響を与えることができない。彼らは遠い故郷を悪く言われたくなく、歴史の暗い過程に光を当てようとすると、一種の集団的反射で抗議する。
 ドイツの歴史とも、彼らは無関係だ。ドイツの旅券を持たない人は、選挙することができず、責任を引き受けることができない。彼らは他人が彼らのためにやる政治の犠牲である。そう言うわけで、次のような広まった態度をとることになる。つまり、責任があるのはいつも他人であり、疑わしい場合は、ドイツ人である。
 移民は、他人に依存して生きている被後見人である。実際、犠牲者の役割は、トルコの政治によって当に祝われている。こういう風に歴史的健忘症のなかで生きるということは、悪い状態である。多くの移民もトルコ社会も幼児的な社会に生きている。それは自分自身に歴史的社会的責任を課さず、歴史を持たない世代になるのだ。
われわれドイツに生活する市民にとっては、しかし、この態度から解放される可能性がある。文句を言うことを止め、参加し関与し、この國の国民になるのだ。統合は、社会への参加であり、それは、移民に対しても反対給付を要求する過程である。自由は学ばねばならず、責任も担われなければならない。
 20年前、私はこの問題で、鍵となる体験をした。私は学生として、11月9日に、ハンブルクのユダヤ教会の祈念式式典に行った。そこでは、ラルフ・ジョルダーノが話をし、彼の家族や隣人達の収容所への輸送を描写した。私の中で奇妙なことが起こった。この物語は、ドイツ人の犯罪についてトルコ人としての私を怒らせることはなく、人間としての私を打った。私は人間として、他人にそう言うことを加える人間を恥ずかしく思ったのだ。
 ずっと後になって初めて、連邦共和国は責任問題を引き受けることを学んだ。1967年に激しい反応を引き起こしたある本が出版された。それは、戦後社会がそのときまで持っていた「意識の検閲」に基づく自己確信がどれほど脆いかを示した。それは、アレクサンダー・ミッチャーリヒとマルガレーテ・ミッチャーリヒの共著『悲しむことができないこと』という書物である。
 これは戦争世代が第三帝国でなされた罪に対して責任を取ることを拒否していることについて論じた本で、それは、二人の著者にとっては、独裁者アドルフ・ヒトラーに対する権威的な固着から自分を解き放し、追悼の仕事をなし得るためには、必要な前提であった。
 連邦共和国の歴史においては、この「想起の仕事」は、今日まで、繰り返し、日常茶飯事である。議論は大抵は非常に対立して行われるが、それは集団的な理解によって、一種の成熟過程を可能にし、それと共に、この共和国の民主的市民的性格を固定するのに役だった。(中略)
 1933年にトルコ共和国は、トルコに新しい大学を創設をするために、30人のドイツ人学者を、後には200人のドイツ人学者を招待した。彼らは多くは「外国におけるドイツ人学者の緊急共同体」に所属する人種的な被迫害者であった。その中には建築家のブルーノ・タウトや、組み込みキチンの発明者のマルガレーテ・シュッテ=リホツキーや作曲家のパウル・ヒンデミットやエルンスト・ロイターと彼らの家族、総勢1千人が含まれていた。
 1938年にケマル・アタチュルクが死ぬと、大抵の契約は延長されず、多くの移住民は、抑留民収容所に入れられた。「中立トルコ」は、ドイツ政府の圧力に基づいて、避難民に「アーリア人証明」を要求し、トルコ経由によるユダヤ人の逃げ道を閉ざそうとした。トルコ在住のユダヤ人とも上手くは行かなかった。ユダヤ人組織の陳述によると、戦争開始以前、2万人のトルコ系ユダヤ人がヨーロッパに住み着いていた。これは、トルコ政府が記録した8万2千人のトルコ系ユダヤ人と比べると大きな数である。彼らはベルリンにトルコ系ユダヤ人のためのユダヤ教会を持っていた。(後略)
[訳者の感想]『ヴェルト・オンライン』に掲載された論説です。中途半端な訳になりました。「トルコ系ユダヤ人」と言うのは、「トルコ国籍をもったユダヤ人」を意味しているのか、それとも「人種的にトルコ人であってユダヤ教を信じている人」であるのか私にはよく分かりません。どうも後者を意味しているように思います。統計によると、トルコには少数のユダヤ教徒が住んでいるようですが、これも「人種的にはトルコ人であって、ユダヤ教を信じている人」のように思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「インドネシアで、イスラム過激派が捜査の焦点」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2009年07月20日 | イスラム問題
インドネシアの首都ジャカルタの二つの豪華ホテルに対するテロ攻撃の後、捜査はイスラム過激派に集中している。インドネシア警察は、週末に、「マレイシア人のヌルディン・トップが二度の爆発の背後に隠れているという兆候について語った。トップは、過去の追跡の後、弱体化したが、破壊はされなかった東南アジアのテロ組織「ジャマー・イスラミア」(JI)の指導的メンバーであり、財政担当者である。専門家は、彼が分派を創設したと推測している。
「マリオット」と「リッツ・カールトン」の両ホテルの爆発の際、少なくとも9人が命を失った。1人のニュージーランド人ビジネスマンと三人のオーストラリア人の死が確認された。1名のシンガポール人も死者の中にいる。まだ特定されない4体の遺体の中に自殺テロの実行者がいると警察は憶測している。50人以上の宿泊客とホテルの従業員が負傷したが、その中には一部、重傷者がいる。
殺されたオーストリア人の一人は、ジャカルタでのオーストラリア貿易代表部のメンバーであり、ケヴィン・ラッド・オーストラリア首相の言葉によると、義務を遂行するために外国で殺された最初の政府官吏である。シュテファン・スミス・オーストラリア外相は、終末にジャカルカタの中心にある犯行現場を訪問した。5年前に、「ジャマー・イスラミア」は、ジャカルタのオーストラリア大使館にテロ攻撃を仕掛け、数名のインドネシア人が死んだ。2002年には、同じ組織がバリ島の二つのナイトクラブを爆破し、88名のオーストラリア人が命を落とした。2001年9月11日以来、流血のテロ攻撃で、200名以上の人が死んだ。
最初の捜査結果によると、爆弾の一つは、明らかに「マリオット・ホテル」の一部屋で組み立てられた。そえゆえ、捜査員は、少なくとも犯人の一人はホテルの宿泊客だったと想定している。容疑は、チェックインの際にクレジット・カードを出さないで、1千ドルの保証金を払った一人の男性に向けられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ソマリアのイスラム過激派、海賊を神の戦士と称賛」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年04月14日 | イスラム問題
ナイロビ・モガディシオ発:ソマリアのイスラム主義者グループは、最近の海賊攻撃を「西欧に対する戦闘」であるとほめた。ラジオ局「ガロヴェ」は、月曜日、そのウエッッブサイトで、イスラム主義者達は、海賊達の攻撃をソマリアの沿岸海域の防衛であると評価したと報道した。「外国勢力は、この国を分割しようとしている。海賊達は、アラーの敵に対して海岸を守っている」と米国によってテロ組織であると刻印を押されているシャバブのスポークスマンであるムクタール・ロボウは述べた。
他のイスラム主義的なゲリラ集団の指導者であるシャイヒ・ハッサン・アブヅラヒは、米国の特殊部隊によって解放されたリチャード・フィリップス船長を人質に取ったことを歓迎した。「海賊は、ムジャヘディンの一部である」と彼は言ったが、海賊達が身代金を要求したことを非難した。「彼らはソマリア沿岸を悪用しようとしているキリスト教的国家に対して戦争をしているのだ。」
最近の襲撃は、ソマリア東部の海賊集団の仕業と見なされている。彼らは海賊行為のために、港町のホビョとハラルデレから出動し、遠くインド洋上でカギのついた縄を投げて船舶を襲撃し、数分で船から退去している。
水曜日に、海賊達は、アメリカの貨物船「マースク・アラバマ」を攻撃し、リチャード・フィリップス船長を捕らえた。その際、米国海軍は直ちに現場に急行した。日曜日に、米国海軍の狙撃手は、海賊4人を射殺し、船長を無傷で解放した。
ソマリア側の陳述では、米国海軍は、海賊をやっつける際に、「トリックを使用した。」イェーメンのアデンに駐在しているソマリアの副領事フッサイン・ハジ・マームードは、月曜日に、アメリカ兵達は、身代金を手渡しの交渉のために、まず、海賊の一人をおびき寄せた。それから、彼らはフィリップス船長を電話に呼び出して、攻撃が始まったら、安全な所に身を隠すように伝えた。船長が海中に身を投じるたとき、狙撃手は、救命ボートに乗っていた海賊を撃った。
そうこうするうち、1ダースほどの船舶が海賊の手中にあり、220名が人質になっている。ソマリア沖で、海賊に乗っ取られた「ハンザ・シュタヴァンガー」号のドイツ人乗組員の運命については、確かな情報はない。「外務省の危機管理室は、事件の解決のために、努力している」と月曜日に外務省報道官はベルリンで述べた。(以下省略)
[訳者の感想]これまで海賊とイスラム過激派とはあまり関係がないと思われていましたが、どうも、事情が変わってきたようです。そのうち、海賊の中にイスラム過激派の指揮官が乗り込んでくるかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする