大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

仁和寺

2019-04-03 | 

仁和寺の東門から入った。非公開文化財特別公開拝観料は奥で払って下さいと云われる。龍安寺から歩いて来たので疲れた。そのまま南にある仁王門から出てホテルに帰ろうかと思ったが、観光客が殆どいなかったので、特別公開だという金堂・経蔵に向かう。
 
 
仁和寺は宇多天皇が光孝天皇の遺志を引継いで仁和四年(888)、完成させ、元号から「仁和寺」とした。その後、宇多天皇は阿衡の紛議や昌泰の変等により嫌気がさしたのか、出家し仁和寺初代門跡となり仁和寺伽藍の西南に御室(御座所)を建て住んだので「御室御所」の別称がある。応仁の乱が勃発、「碧山日録」応仁二年(1468)九月四日の條に「東兵焼北山仁和寺正印之悟蔵司来説寺中西兵擾乱」とあり、仁和寺に陣を構えていた西軍に東軍が攻撃を加え、兵火により堂宇すべて燒失し、宣胤卿記によれば「それ以来、仁和寺は御室始め悉く荒野なり」と嘆くほど荒廃した。寛永十一年(1634)、第二十一世門跡覚深入道親王(後南御室・後陽成天皇第一皇子)の時、徳川家光の寄進によって再建が進められた。この時皇居造営の事があり、朝廷からも紫宸殿、清涼殿、御御殿、唐門等数宇を賜り移築した。幕府はこの時の費用として金廿四万両を寄進している。明治二十年、宸殿、黒書院、勅使門等焼失し、明治二十三年から再建を開始し、現在に至っている。寛永の時、朝廷から下賜された紫宸殿は金堂に、御影堂は清涼殿の材料を使用して作られた。金堂(国宝)は壁に極彩色の浄土図が描かれ本尊の阿弥陀三尊像や四天王像、帝釈天像などが安置されている。堂内の須弥壇の裏にある五大明王壁画が見られなかったのは残念だった。重要文化財の経蔵は、寛永十八年(1641)に再建された「天海版一切経」を納めるお堂で、中央に摩荷車の親玉みたいな八角形の回転式輪蔵があった。
 
(2007年、春の御室桜)
 

   
金堂と仁王門の一直線上の中間に中門がある。金堂と仁王門を結ぶ直線は真南を向いているかと思ったら、気持ち西に向いている。延長線上に何があるのかと思ったら双ヶ岡古墳群がある三の岡(一の岡、二の岡、三の岡)にぶつかった。この双ヶ岡はもとの仁和寺の寺領だったが、昭和53年、一部京都市が公有化して公園として整備している。仁和寺はこの双ヶ岡の埋葬者となにか関係があるのだろうか。一の岡東麓にある長泉寺に吉田兼好の墓がある。双ヶ岡は兼好の隠棲した地と伝わり、一説には、この地で「徒然草」を書き上げたと伝わる。徒然草と云えば、その五十二段に仁和寺の法師が山麓の極楽寺・高良神社を石清水八幡宮の本殿と勘違いしたという失敗談を載せている。五十二段、五十三段、五十四段すべて仁和寺の法師の失敗談を載せている。なにか仁和寺に遺恨でもあったのだろうか。人の平均移動距離は一日十里(40km)として、仁和寺から石清水まで直線で16k、徒歩で真っすぐ南下して、桂川沿いに歩き、桂川か宇治川を渡り石清水山麓まで地図上の徒歩距離だと17kから20kある。往復を考えると仁和寺から山麓に着いてすぐ戻っても十時間近く掛かることになる。勅願寺である仁和寺の法師が都の裏鬼門にあたる石清水八幡宮の本殿の場所を知らないことはあり得ないと思う。「神へ参るこそ、本意なれ」というのであれば、なにも山頂に行かなくてもよいわけで、この五十二段は「少しの事にも、先達は、あらまほしき事也」という単純な話では、ないのではないだろうか。

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