尾張徳川家に縁のある貞祖院、建中寺に寄ってから名古屋城に行った。貞祖院のある東区泉はお寺も多く、小さな路地に迷い、入口を探してグルグル回ってしまって、中々たどり着けなかった。
慶長十三年(1608)徳川家康四男で清洲城主松平忠吉の養母於美津ノ方(松平忠久の娘)が、忠吉公の菩提を弔うため、清洲に庵室を創立、その後、於美津ノ方の戒名「喜秀院殿光誉貞祖大禅定尼」から喜秀山貞祖院玄白寺と号し、慶長十六年(1611)、清洲より現在地に移る。明治五年(1873)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺にあった尾張藩四代藩主吉通の御霊廟を譲り受け貞祖院本堂とし現在に至っているという。
貞祖院から建中寺までは1k弱、歩いて15分程度の所にある。名古屋の街中を歩くのは今回が初めてだったが、歩いている人とあまりすれ違わないのが不思議だった。建中寺は慶安三年(1650)に逝去した初代尾張藩主義直公(家康の九番目の息子)の菩提を弔い、尾張徳川家先祖代々の菩提寺として、第二代尾張藩主徳川光友卿が、慶安四年(1651)、本堂、諸堂伽藍十棟を建立し、茨城県結城市弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山した。総門・三門は創建当時の建築物として残っていて、総門、三門、本堂、鐘楼はいずれも名古屋市指定文化財に指定されている。
お寺の境内案内図を見て、山門の前にある公園の反対側に総門があるのに気が付く。大した距離ではないのになにかガックリする。
名古屋代官郵便局に寄ってからタクシーで名古屋城に向った。平日だったせいか観光客も疎らで、さすが二ノ丸跡まで足を延ばす観光客もいなかったが、どうしても訪ねたかったのが名古屋城二の丸庭園にある「青松葉事件之遺跡」碑。昭和の初めに、現在地から南へ約100mの処刑地跡(現在の愛知県体育館付近)に「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑が建立されたが、その後所在不明となり、昭和六十三年に青松葉事件の関係者により復元されたという。
青松葉事件とは慶應四年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍大敗を京都で知り朝廷側が幕府側につくか選択を迫られた十四代尾張藩主徳川慶勝は、近隣諸侯を慫慂し勤王奮発(勤王誘引)を行い、姦従誅戮の実行として尾張藩士十四名を姦曲の処置、志不正によりと斬姦した。青松葉の呼称は諸説あるようだが、何時、誰が名付けたのか興味深く感じる。一本の石碑、藩訓秘伝の碑(王命に依って催さるる事)が「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑の近くにある。説明板に「この碑文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である」とある。実際は「軍書合鑑」の巻末に依王命被催事の一條が加えられているという。四代藩主徳川吉通に仕えた近松茂矩が十七歳の時、藩主圓覚院(吉通)より次期藩主五郎太幼少につき成長の後に伝えよと、五十二年以前、直伝により輯録したものを明和元年(1713)、圓覚院様御伝十五箇條として著した。第九から第十四条までの「六ヶ條ハ各別御隠密ナル御家訓ノ由ニテ奥田主馬ト私両人、御寝ノ間ヘ召シテ、御相傳下サレヌ」とあり、その第十二に、軍書合鑑巻末、依王命被催事の一條の説明が「官兵を催される事がある時は、いつとても官軍に属すべき、一門の好みを思ふてかりにも 朝廷にむかふて、弓を引事あるべからず、此一大事を子孫に御傳へ被成たき思召にて、此一ヶ條を巻尾に御記し遺させられたりと思ふべし」とあり、最重要である尊王條項は第一條ではなく十二條に唐突な感じで出てくる。なぜ五十年余も経った後の九代藩主宗睦の時代に藩主相伝であるはずの御家訓をわざわざ著したのは、どんな理由があったのだろうか、不思議な気がする。