大正十四年三月、烏山中学校を退職した中根明は、どういう経緯か判らないが、同年四月より宇都宮の下野中学校校長として赴任した。
この下野中学校は栃木県教育史によれば、宇都宮の英語を主とする私塾を明治十八年九月、校名を下野英学校と定め船田兵吾氏を校長としてスタート、明治二十一年九月、明治四年廃藩により黒羽藩校作新館の名を継いで、私立作新館と改称した。藩校作新館は勝海舟が書経の「作新民」により命名したという。同二十八年、省令により尋常中学作新館と改め、同三十二年、正式に中学校と認定を受け、私立下野中学校と改称、同四十四年三月、烏山中学校と共に徴兵令第十三条資格の認定を受ける。大正十四年三月より財団法人下野中学校と組織変更した。
創立者でもある船田兵吾氏が校長として心血を注いだ私立下野中学校の第三代校長として赴任したのが旧会津藩士の中根明だった。明治後半から大正にかけて全国的に学校紛擾が多発、下野中学校でも明治三十二年十月、文部省から正式に認可を受けて半年後に設備増設と教師処分撤回で不登校が発生している。
読売新聞大正十三年八月二十八日付け記事は「下野中学校の書記が卒業証書を売る」とのセンセーショナルな見出しで三百円から五百円で五十余枚乱発、警視庁活動を始めたと報じた。売買された下野中学校卒業証書が徴兵忌避に使われ、騒ぎは大きくなった。東京朝日新聞大正十三年九月一四日付け記事は「船田校長に令状執行、卒業証書廉売の事件で校長の不正も発覚、下野中学校不正卒業証書乱発事件は、愈々××書記の犯跡暫時判明すると同時に、校長船田兵吾氏も之に関連する事実判明十二日東京地方裁判所から令状を執行された為め、監督の地位にある栃木県当局者も捨て置かれず右の不始末を文部省に報告同校の閉鎖又は極度の厳罰を加へる手続に出でんとしたので同校では十二日職員会議を開き善後策を協議した結果、同校創立者にして三十余年間同校長の職に在った船田氏は同日直に校長の職を辞し、後任校長として元歩兵第六十六連隊長予備歩兵大佐××氏を推薦することとなり、其旨十三日本県当局者に許可を願ひ出でたが、同校経営は依然として船田氏之に当り、××大佐は同校の急務を救ふ為め校長の任に当たったものである。尚船田氏は目下病中で令状を執行されても之に応じ難い状態である」と報じている。船田兵吾氏の関連する事実とはなんだったのだろうか。監督者としての責任を問われたのか、それとも教育者としての信念を貫いた結果だったのだろうか。
百年誌(作新学院)は、某書記による卒業証書偽造について、地元の新聞はここぞとばかり書きたてた。船田兵吾氏と政治的対立にあった当時の県知事の干渉を受け、官尊民卑の風潮が強い時代であったため、兵吾氏自身には法的責任のない、ただ病気中の隙に付けこんだ一書記不祥事件ではあったが、校長としての監督不行届きを責められ、官憲の圧迫を一身に受ける結果となった。このため世評は甚だ悪化し、学校の浮沈にも関係してきたと記述している。事件が発覚したのが八月、同年十月この書記の裁判判決があった。異様な速さの判決である。同時に、この贋卒業証書を利用して一年志願兵に志願したものは軍法会議に移牒されることになった。
中根明校長排斥運動(二)
校長中根明