徴兵令は明治二十二年に公布された大日本帝国憲法以前は太政官令によって定められていたが、明治二十二年二月法律第一号として徴兵令が公布された。第一條は「日本帝国臣民にして満十七歳より満四十歳迄の男子は総て兵役に服するの義務あるものとす」という国民皆兵の原則によるものだった。
ただし例外条項があった。学校関係については十三条に満十七歳より満二十八歳以下にして官立学校(小学校除く)、府県師範学校中学校、文部大臣が認めた私立中学校の卒業証書を所持したもので予備後備将校たる希望を有する者は志願により一箇年間陸軍現役に服することを得」また官立公立小学校の教職にある者にも服役の優遇条項があった。明治六年一月徴兵令常備兵免役概則の一条から十一条まで免役条項があり、また徴兵雑則並扱方に代人料上納による免除規定もあり合法的な徴兵回避が出来るようになっていた。
このため国民の兵役義務の平等化とは程遠いものだった。荒っぽく言えば、徴兵忌避にありとあらゆる手段が使われた。こんななか、下野新聞(大正十三年九月十三日付)「下野中書記が大正八年から卒業証書七十八枚を売ったことが発覚」(栃木県教育史年表)と報道、この偽造卒業証書が徴兵忌避に使われ、騒ぎが大きくなったことは前に述べた。下野中学校船田校長は創立者協議の結果、下野中学廃校を決意した。しかし内閣書記官という要職にあった長男船田中氏の奔走によって一旦は事なきを得たが、十三年十二月、病気療養中だった船田兵吾氏が五十七歳の生涯を閉じた。
二代校長には船田中氏が就任したが翌十四年三月、僅か三月半で退任した。栃木県教育史によれば官憲の圧力に抗し得ずとある。三代校長として烏山中学校長を退職した中根明を迎えた。作新学園の百年誌は「私学の建学精神を理解できない輸入校長の着任は、船田兵吾に教育された生徒たちにとって快く思う筈はなかった」とある。就任した中根校長は直ちに学業成績を順位別に発表し、成績不良の生徒二十五人を落第処分にした。当時の新聞はこれを中根の大英断として評価したが、校長事務取扱の修身授業中の失言問題や教職員解雇問題も絡み、これらを良しとしない生徒達が同盟休校、校長排斥運動へと発展していったが排斥運動は事前に知れ中根校長の排斥は不発に終わった。
この時、成績発表の用紙を撤去し破棄して中根校長叱責第一号の栄誉を受けることになった昭和二年卒の五十嵐栄次氏の「中根校長排斥運動」の思い出が百年誌に載っている。排斥運動は学校内外からの影響もあって、その気運が最高潮に達したころ、血判状が作られた。血が余ったので、半紙判用紙に「中根排斥」「校長排斥」と書き黒板に貼られた。ところが「中根排斥」五十嵐と署名入りにしたため、その写真が大きく引き伸ばされ、額に収められて校長室に飾り置かれた。陸上競技の新記録、兵式教練観閲最優秀に選ばれ、その度ごとに校長室によばれ、署名入りの写真を眺めながら「君という奴は偉いやっちゃのう」と褒められたり感謝された。私は兵吾先生に対する心服とは別の意味で、中根先生は忘れ得ぬ先生である」と書かれていた。卒業生の一人は、中根明氏は直情径行の人だったと述べている。中根校長は理ことわりに適かなったことを曲げるのを極端に嫌ったのだろう。中根校長は昭和三年三月で下野中学を退職、そのあと福島県史によれば東京の梅香女子校長になったとあるが、梅香という女子校を見つけることが出来なかった。
中根明校長排斥運動(一)