川俣英夫氏が創立した烏山学館から明治四十四年、私立烏山中学校に変わった時、校長に就任したのが旧会津藩士で農学士中根明であったことは前に述べた。中根明を知ったのは、「川俣英夫先生傳」と云う本に出会った事に依る。明治時代に地方で官立でない学校を経営維持するのは多額の費用を必要とし、経済的に非常に苦しい。この本に素晴らしいエピソードの記載があり、引用する。第何回かの卒業式場に父兄のひとりが、自製の障子紙を手にして壇上に立ち、「自分はこの紙を持参して、これから後川俣先生の本宅の障子を張ってあげようと思う、先生は年に千円も二千円も中学校へ寄附されるので障子は破れたまま張れないのである」と絶叫して降壇されたという。
校長として烏山に赴任した中根明は札幌農学校(現北海道大学)の第三期農学士として卒業(明治十五年七月)、その後は教職についている。明治三十年四月はまだ栃木県尋常中学校長であったが、どのような理由か判らないが、明治三十年九月に青森大林区署長に任官した。ところが官林貸下竝立木特売に関する手続き不備の責任を問われ、明治三十一年十二月非職となり、文官高等懲戒委員会の決議により明治三十二年十一月、免官となり、正七位の位記返上させられている。
(アジア歴史資料センターレファレンスコード A10110628700)
明治三十二年八月十六日附東京朝日新聞に「青森県野平予約払下取消事件の後報を聞くに当事者中村新助氏が該契約には取消すべき瑕疵なければとて取消命令書を書留郵便にて突戻したるより農商務省にては更に同地開墾の障碍たる樹木約四千円の払下を随意契約(五百円以上は随意契約を許さざるは会計規則の定むる所なり)にて取結びたる件を非とし当時の大林区署長中根明氏を懲戒処分に附したる上該契約は取消さしめんとの方針なりしが右の随意契約締結の責任者は中根署長上京中柴田林務官代理として此れに当り居たる由にて農商務省は又此処分を猶予せざるを得ざるに至り(柴田林務官を懲罰する能はざる事情ある由今以て其のままとなり居ると関係者の一人は物語れり)」との記事が掲載された。さらに同年十月二十七日附同紙に「大石氏農商務大臣当時の青森大林区署長中根明氏は目下非職の身分なるが曽禰農相青森県下山林払下取消命令に失敗したる復讐として今度懲戒処分に付せらるる事となれり情状重しとの事にて位記返上の命令までも発すべしと云へり」とある。記事が掲載された訳でもないだろうが、林務官柴田義雄も免官されている。ちなみに曽禰農相とは長州藩士宍戸潤平の三男の曾禰荒助です。事件直後に柴田義雄林務官を懲罰することが出来ない事情とはどんなものだったのだろうか。
免官後、岡山、福岡、栃木で実業に従事したという。明治四十四年から烏山中学校校長となった中根明は川俣英夫氏が亡くなった大正十三年の翌年三月、烏山中学校を退職、同年四月より宇都宮の下野中学校校長として赴任している。この大正十四年三月に高等官五等待遇公立中学校校長として叙従六位の叙位を受けている。
(アジア歴史資料センターレファレンスコード A11113480800)
下野中学校は今の作新学院で、大正十四年三月、事務員による卒業証書偽造事件もあり、今までの私立下野中学校から財団法人下野中学校と新組織に変わった時で、中根明校長は赴任早々、激しい校長排斥運動に見舞われることになった。
中根明校長排斥運動