山科の門跡寺院の勧修寺に行った。やっと読めるお寺だと思ったら、この辺一帯の地名は「かんしゅうじ」で、勧修寺の呼称は正式には「かじゅうじ」だという。勧修寺第四十五代筑波常遍氏がその著書で述べていると云う。古書に振り仮名でも付いていたのだろうか。とは寺の首長である僧をいい、本来は別当・座主などと同格の地位あるいは別名であったが、園城寺・勧修寺では、別当より上位に置かれていたという。にも色々な意味があるものだと感心する。群書類従に勧修寺縁起が記載されているが、仮名交じり文で読むのに苦労する。勧修寺は亀甲山と号し、開基は醍醐天皇、開山は承俊律師。醍醐天皇は母胤子の菩提を弔うため、母の生家・宇治郡の大領宮道弥益の邸宅に伽藍を建立し御願寺としたのが勧修寺で、寺号は天皇の祖父にあたる藤原高藤の謚号をとって勧修寺と名付けた。本尊は醍醐天皇等身の千手観音を安置し、里人は「南山科御殿」或は「御殿」と呼んだと云う。縁起に「この寺未だ造はじめざりける時、渤海国の使、斐裘という人、この国に渡れりけるが、越州敦賀の津に着て、山科をめぐりて、羅生門へ行くとて、南山のかげ道を通りけるが、馬をりて、北に向いて、拝して通りけるを、人その心をしらず、あやしびて問ければ、渤海客申けるは、此処にちかく伽藍出来待べし、地形亀も甲のごとし、佛法の命長久にして、貴人たゆべからず、このゆえに拝する也とぞ申ける」これが當寺建立以前の姿で、山号の由来もここにあるという。斐裘という人は山科の南から羅生門へ向かう途中、どの山が亀甲にみえたのだろう、凡人には、丘陵がみな亀甲にみえてしまう。地下鉄小野駅から真西に約500m位で勧修寺門前の駐車場に着く。駐車場入口に法華千部の石標があるお堂の横に四本の石柱があった。
愛宕常夜燈の石柱(「火伏せ」の神様の愛宕山山頂にある愛宕神社から広まった愛宕信仰で仁王堂町の燈明講中が建立したものか)。文化元年建立道標(右大津 是より一丁北西、左京道 すべり石越大仏。北 すぐふしみふじ)、天保十四年銭屋八郎兵衛建立道標(大石蔵〔以下埋没「之助旧跡」カ〕)、京都市建立道標(東面 右坂上田村麻呂公墓、山科滑石方面、左深草、小栗栖方面)。銭屋八郎兵衛は西陣で糸商売を営んでいたという。駐車場から山門まで直ぐだと思ったら、時代劇に出てきそうな鉤型の白塀が続く道が山門までえらく遠くに感じる。
勧修寺は真言宗寺院として勧修寺派を開いたが、その後、他の真言宗宗派と連合、合併を行ったが、明治四十年十月、真言宗山階派として独立を許可された。一時、政府により真言宗各派合同させられたが、昭和27年に真言宗山階派大本山となっている。明正殿とも云う宸殿は元禄年中明正天皇の宮殿を當寺の長吏済深法親王に寄進され建立したものと云われている。正面の懸額は山階宮晃親王に御染筆による。
明正天皇の生母は二代将軍徳川秀忠の正室江(崇源院)の子、和子です。書院脇に勧修寺型燈籠と呼ばれる大きな傘の変わった燈籠があった。これは水戸光圀の寄進と言われている。
勧修寺の御朱印は、勧修寺南側に隣接する佛光院(勧修寺納経所)で頂ける。この寺は昭和に入り、かつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼によって再興建立された。
庫裏脇の大きな甕に最近ではあまりお目に懸れない在来種らしきメダカがいた。