築地聖路加病院の周り、居留地跡地に学校発祥の地の碑があるというので築地明石町に初めて行った。思った以上に色々な碑が建てられていて驚く。 右絵図)都史紀要四 築地居留地より
左)入船橋より 右)築地川公園から聖路加看護大
A、ガス灯 B、築地外国人居留地跡 C、カトリック築地教会 D、H・フォ―ルス住居の跡 E、トイスラー記念館 F、アメリカ公使館石標 G、浅野匠頭邸跡 H、芥川龍之介誕生の地 I、日本近代文化事始の地 J、アメリカ公使館跡 1~10は学校発祥の地
A、ガス街灯柱。この街灯柱は、以前この場所にあった「中央区立第二中学校」に設置されたもので、台座は学校の階段石が使われているという。
B、右側のレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部で、ベンチの座面に使われている花崗岩は大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものだという。
C、鉄砲洲の稲荷橋付近で開いた稲荷橋教会がその前身のカトリック築地教会は明治七年(1874)、ここに司祭館と聖堂を建立した(昭和二年再建)
D、指紋研究発祥の地 英国人医師H・フォールズ住居の跡で日本の指印習慣に興味を持ち、科学的指紋法に関する世界最初の論文をネーチュアに発表した。
E、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町十九番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設され清水組(現在の清水建設株式会社)が施行した。平成元年に解体工事が行われ、平成十年に現在地へと移築復元された。
F・J、アメリカ公使館跡と石標 アメリカ公使館は安政六年(1859)、ハリスにより港区元麻布の善福寺に開設されたが、明治八年(1875)十二月に築地居留地内に移転した。のち明治二十三年(1890)に赤坂の現在地に移転したが、その時、八個の小松石の石標が残され、その内、3個が昭和五十九年(1984)に日米友好のシンボルとして赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、残る五個の石標は三個が旧病院前(現看護学校中庭)、二個が聖路加タワーの中庭前に設置した。
ハリスの秘書兼通訳を務めたH・ヒュースケンは万延元年(1861)、芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派に襲われ、翌日死去した。墓所は築地居留地の人々の外人墓地が青山墓地内に決まるまで、外国人の仮埋葬地になっていた麻布の光林寺にある。(麻布善福寺、アメリカ公使宿館跡)
G、元禄十四年(1701)、お家断絶となった播磨国 (兵庫県) 赤穂藩主、浅野家の江戸上屋敷地があったところで八千九百七十四坪の広さだったという。
H、「羅生門」「蜘蛛の糸」などでしられる芥川龍之介は明治二十五年 (1892) 三月一日の辰年辰月辰日に生まれたので、龍之介と命名されたという。
I、日本近代文化事始の地の左側に福沢諭吉の碑・右側には解体新書の碑が建てられている。
東京築地居留地(1~10は学校発祥の地)