先日、ヒュースケンの墓を麻布光林寺に訪ねた。
お寺の表側からは想像出来ないほど、墓域は広く庫裏の右側にある道を進むと墓域にでる。麻布台の緩やかな傾斜地に①日向高鍋秋月家、②丹波福知山朽木家、③大和郡山柳沢家、④伊勢亀山板倉家、⑤肥前平戸松浦家、⑥対馬府中宗家、⑧伊予大洲加藤家(池之端加藤家)、⑨讃岐丸亀京極家、⑪美濃岩村松平家、⑬讃岐多度津京極家墓所などの大名家や旗本の墓域があった。
光林寺墓域略図(ヒュースケンの墓(A)、伝吉の墓(B))
墓域上段の右奥に①日向高鍋二万七千石秋月家六代からの九代までの墓がある。左から龍光院(秋月家六代種美)、法観院(秋月家七代種茂)、泰雲院(秋月家八代種徳)、俊徳院(秋月家九代種任)の墓が並んでいる。
秋月家墓所手前の②常智院は丹波福知山三万二千石朽木家五代稙治、常智院の隣が大和郡山十五万石柳沢家二代吉里室(姫路酒井忠挙娘)の③円徳院
お寺の庫裏の横を真直ぐ登って突き当りの右にあるのが伊勢亀山五万石板倉家二代重冬室(松浦鎮信娘)の④長慶院。
墓域の上側の水場の左側に二基、並んでいる右側が⑤本光院(肥前平戸六万石松浦家四代鎮信側室、その左側が対馬府中十万石格宗家三代義真室(京極家三代高和娘)の⑥円照院です。
反対側には⑦松浦家墓所があり、
その隣が⑧大洲加藤家から分地した旗本池之端加藤家墓所がある。ここに藤原泰周が誌した石板(石碑?)が残っている。泰周は旗本加藤家二代泰都(第三代藩主加藤泰恒の六男)の長男で後の黒羽藩主大関増業。
向側に石門、登楼を備えた⑨讃岐丸亀五万千五百石京極家の三基の墓がある。左から養性院は高和室で伊勢津石堂藩二代高次娘市子、中央松樹院は京極家四代高豊室(姫路酒井忠挙娘永)、右の天裕素性童子は京極家四代高豊男祐次郎の墓です。
讃岐丸亀京極家の前(池之端加藤家の隣)に⑩雲松院と彫られた石灯籠が幾つかあります、横に横たわっている石には京極家の四つ目結紋と大久保家の上リ藤に大字の紋が彫られていて、岩目地善左衛門の名もありました。石灯籠には京極高定奉納ともあり、高定は丸亀京極家六代高矩の初名であり、高矩の姉妹で大久保忠胤に室になった常子(恒)の法号雲松院なので、この場所に大久保忠胤室だった雲松院の墓所があったと思われる。
西側の上側に美濃岩村三万石大給松平家の家族の墓域がある⑪(右から芳池院五代乗保長男乗友室、敬信院・四代乗薀継室、清観院・乗喬子宝千代、後列右から清心院・五代乗保側室(平戸松浦鎮信娘)、桂株院・七代乗喬側室、千葉延子・六代乗美側室、)
本堂の左側横に⑬多度津藩京極家墓所がある。
明治時代の実業家、志賀直道(旧中村藩主相馬家の家令、志賀直哉の祖父)と共同で足尾銅山を開発した古河財閥の創始者⑫古河市兵衛と家族の墓が本堂左側直ぐにある。本堂の裏手に同じ古河家の墓域⑭がある。ここは古河家の墓碑と古河財閥二代目の陸奥宗光次男で古河市兵衛の養子となった潤吉の墓所となっています。
池之端加藤家墓域石文
麻布光林寺(ヒュースケンの墓)