白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(310)山路洋平先生のこと

2018-04-13 11:00:33 | 人物

山路洋平先生のこと



 2016年12月29日 山路洋平先生直腸がんで亡くなったという 82歳だった

年末も押し詰まった時亡くなったので新聞発表は翌年の1月の中頃だった、
しかも彼が関係していたサンケイグループの新聞だけだったので見逃してしまっていた
それによると
 放送作家として関西のテレビ、ラジオの番組で活躍 代表作として「一心茶助」など
サンケイ新聞の夕刊コラム「ぶっちゃけ話」など長年に渡り連載した

とある
山路家は日本文学史でお馴染みの北村透谷との論争で有名な山路愛山の子孫だそうで 彼のお兄さんはサンケイ新聞などの敏腕記者で同紙の会社の専務まで上り詰めた山路昭平さんだ その関係で小銭稼ぎは出来たのである

先生(と呼ぶのもこそばゆいのだが東宝芸能関西での先輩であったので一応、彼の不幸は出演者やスタッフの誰もが先生と言わなかったことだろう)との思い出は白鷺だより(25)や(45)を読んで頂くとして 僕の結婚式の祝辞で嫁に向かって 「朝起きたて歯ブラシが終わったら原稿用紙とペンを用意しておくように」と自分でもやっているはずがないことを言った時笑ってしまったこと 入って一年目のお正月にご自宅に招待され 豊中の桜塚にある大邸宅にお邪魔して鍋をつつきながら「かくし芸大会」を見たことなどが思い出される あの時息子さんに渡すお年玉代を工面するのに僕と朝丸は苦労していたことなど誰も知らないだろう

僕が先にトップホットを辞め 会うこともなくなって何年かしてサンケイホールでの宝塚OGが集まってのミュージカル(瀬戸内美八主演)をお手伝いしたのが一回ある(そうだ その公演で未央一と初めてあった そのころ未央ちゃんは新婚ホヤホヤで義理の娘のお弁当作りを楽し気に話していたっけ)

それから ながらくご無沙汰していたが5年ほど前 先生の小説「紙のピアノ~新制中学物語」を自らで劇化するのにこれこれこういうキャラクターの役者がいたら紹介してくれとの電話だった 何人か心当たりがある役者を紹介すると僕の活躍をどこかで聞いていたらしく喜んでくれた 嬉しかった  それが突然の訃報だ

彼の「日本芸能再発見の会」での講演会の話をまとめた記事があるのでそこから彼の経歴を注釈を付けながら紹介する

昭和32年早稲田を卒業した彼は関西の東宝演劇部に所属して北野劇場で映画の合間でのショウの演出部に配属される 同期に新野新がいた やっとチーフをやれるようになった頃 急に新設の「東宝関西支部テレビ課」に配属される いつか舞台に戻れるという条件で配属されたものの 時はおりしも関西でもテレビ局が次々と開設され東宝も映画だけではなくテレビにも力をいれていこうという方針で創立された部署で その責任者は花登筐 当時大阪テレビで「やりくりアパート」を横山エンタツ、初音礼子らベテランと新進で子飼いの佐々十郎、茶川一郎、大村崑などを組み合わせあ生放送コメデイで大ヒットをとばしていた

花登さんの画期的なことはスポンサー、企画、俳優、台本、全てパッケージにして局に売り込むという現在の制作会社がやることを一人でやったことである

テレビ受像機も家にはなかった彼だったが戻るべく思っていた北野劇場が実演をやらないことが決まって この課で頑張らざるをえなかった
デビュー作「バッチリ天国」(富士フィルム)は花登さんのテリトリーを犯してはという配慮で「花村洋」というペンネームで書いた 結局バレたが花という一字が入っていたので許される
やがて新野新と組んで彼が学生時代グリークラブで活躍してたことを生かし音楽バラエティー 「グッドナイトファンタジー」を書く これなら音楽に弱い花登のテリトリーをおかすことがなかったが 次の「LMS珍道中」は完全に接触して花登パージをうけることになる 幸い花登が「笑いの王国」を設立して松竹に去ったことや彼の「一心茶助」がヒットしたため 売れっ子ドラマ作家となっていく その後放送作家としてドラマ、バラエティーなど数100本の台本を書くことになる

僕が東宝芸能関西に入ったのは彼がドラマを書く仕事が全部終わって トップホットのコマ新喜劇のレギュラーとなって あとABCの「お笑いトップホット」という番組の構成の仕事だけになった頃であった


新野新と山路洋平と並んで「東宝三羽烏」と言われた池田幾三さんのブログ記事より抜粋

昭和34年 早稲田を出て松竹の入社試験を寝坊のため受験出来なかった池田はゼミの教授の勧めで構成放送作家になるべく受けた東宝テレビ部に入社 実家が関西だったので関西支部に配属 そこで一緒になったのが一年先輩で早稲田の先輩、山路洋平と新野新だった 共に新設のテレビ課の契約作家としてスタートしたばかりであった
洋平ちゃんは得意の芝居やミュージカルの世界で話題の作品を手掛けています
新ちゃんは25年の間私と「ペン企画」という作家集団を主宰し 色んなテレビ番組を書き 出演し正に同じ釜の飯を食いつづけてきました
「東宝の若手三羽ガラス」などとメディアに取り上げられたこともありました
私にとって放送の世界での同期生で40数年間の戦友とも言えるのがこの二人です
この三人の先輩として大活躍していたのが花登筐だった

テレビドラマのデータベースは芝居のそれとは違い充実していて殆どの作品がカバーされている 順不同だが山路先生が手掛けた作品を網羅してみる

バッチリ天国 LMS珍道中 お笑いアンテナ 角帽太平記 おいでやす バッチリ横丁 私は喋らない 一心茶助 とんぼり 本日発売 
家に3男2女あり ころんぼ波止場 いーすねえ、そーすねえ エプロンおばさん 部長刑事「殺し屋」「自殺」とことんしゃん大奮闘 
あの子この子お隣さん 蛙の子雀の子
 などなど

前述したように彼は早稲田大学でグリークラブに所属していて名テナー歌手だった
そのグリークラブ同窓会 大阪稲門会60周年記念演奏会にて発表された先生の遺作

「青春ノスタルジア」 山路洋平 作詞 鈴木淳 作曲

何時の間にか 歳をとって
髪の毛も薄くなった
けど僕の仲間は くたばらないぜ
体操だってウオーキングだって
オイッチ二サン(ふう)
ラララ 美人がこっちへやって来るぜ
僕の好みのお前好みの髪が長い女が
キタキタキタキタ!
おじいちゃん 何やってんの?
気が付きゃあ この子は俺の孫だった


(作曲の鈴木淳もグリークラブで山路の先輩だった)