白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(116)青春の街 上六の思い出

2016-08-04 08:18:53 | 思い出
 青春の街 上六の思い出

高校一年生の夏 ボクはアルバイトなるものを初めて体験した 
場所は大阪の西九条にあった鉄材場で鉄骨の棒を何本か束にしてクレーンで車に積み込む作業であった
僕が住んでいた三重県の名張という町からそこへ行くのは
近鉄電車で準急で一時間ちょっとかけて鶴橋まで出て(そのころは近鉄は次の上六までだった)
そこから環状線に乗って西九条まで延々二時間くらいの通勤時間だった 
その乗り換え駅の鶴橋で芦屋雁之助がお風呂に入った「上六トルコ」の目立った看板があった 
興味があったのである日の帰り上六まで乗って行き その近辺を歩いてびっくりした 
上六駅前では歴史の教科書や映画でしか見たことのない闇市の世界が広がっていた
狭い一角にひしめき合っいる店の数々 飛び交う外国語  
そのカルチャーショックはすさまじくそれ以降バイト中毎日上六に通ったのである 
ボクはそこで生まれて初めてパチンコ(もちろん名張にもあったがいわゆる顔をさすので)をして 
寺山修司の本(彼が上京して食べ感動したという)でしか見たことが無かった餃子なる食べ物を初めて屋台の中華屋で食べて感動した
(最初はどうやって食べるかわからなかったのでラー油のみで食べむせて笑われた)

このあたりは戦前の大軌ビルという大阪電気軌道(近鉄の前身)の商業施設の跡だった
その中に大軌は三笠百貨店がオープンするが 大阪空襲によって壊滅 焼け野原となった

戦後その土地に三国人らが闇市を開く 元々の持ち主近鉄側も警察に訴え 
立ち退きを迫るが「国際商店会」など組合を作って抵抗 
近鉄は仕方なく現在の位置に近鉄百貨店を作りターミナル百貨店とした 

僕が通っていた頃は 住民と大阪府と共同で地下街を含む地上10階建てのビル建設の話し合いが開始された時で
1979年「うえほんまちハイハイタウン」が完成するまでまだまだ時間があった

さて 憧れた「上六トルコ」は
現在のハイハイタウンからもう少し天王寺側(現在のダイワロイネットホテルのところ)にあって 
ボクはその前を行ったり来たりしたが結局入ることはできなかった 
その向こうの生玉神社まで延々と続く「つれこみ旅館」街、
15歳のぼくには踏み込んではいけない大人の世界があった

この「トルコ」で大当たりした経営者の金(沢)尚淑(キム・サンクス)は
パチンコで大儲けした金で八尾に日本の他大学では就職の難しかった北朝鮮系の学者を集め
「大阪経済法科大学」まで作ってしまう(1971)

現在のハイハイタウンは大阪駅前の第一ビル~第四ビルなどと同様シャッタービルになってしまっている 
細々と経営しているビルの中のパチンコ屋は昔 通ったパチンコ屋であろうか 
ひなびた中華屋さんはかってのおいしい餃子の店であろうか
 
その後近鉄は難波まで伸び 鶴橋での乗り換えも無くなった 
上六も仕事以外で降りることも無くなった 
仕事で「新歌舞伎座」に行くたびに消えて行く 昔の思い出・・・

この文章は今朝のチラシに堺東駅前の商業ビル「ジョルノ」が閉鎖するとあったので触発されて書いた 
ここも闇市後の「堺中央マーケット」跡であった(1981オープン)
そういえば大阪駅前の闇市跡も僕らの世代は覚えている・・・・

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