白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(358)梅田コマの三波春夫

2019-08-14 10:47:46 | 演劇資料
      梅田コマの三波春夫



三波春夫

 若手浪曲師南条文若として頭角をあらわそうとしていた昭和19年召集され 満州に渡る
昭和20年8月ソ連軍に侵攻され終戦を知らぬまま投降 そのままシベリア送りの捕虜となる(ラーゲリー収容所)
収容所では浪曲師として赤化思想の一環として活動させられ 昭和24年帰国 (赤化浪曲をやることを条件)
洗脳されて帰って来た彼が演じる「労働者よ目覚めよ」なる浪曲は受け入れられるはずもなく
「生活の西洋化」と反比例して浪曲は衰退してきた
仕方なく歌謡曲に転向して一発目の「チャンチキおけさ」が大ヒット 
続いて「船方さんよ」「雪の渡り鳥」「大利根無情」などのヒットを飛ばす
一方 長編歌謡浪曲というジャンルを確立 「元禄名槍譜 俵星現場」「豪商一代 紀伊国屋文左衛門」などを出す
歌の力で戦後復興の「音頭取り」という自負で挑戦した「東京五輪音頭」「世界の国からコンニチワ」は競作ながら大ヒット

昭和35年御園座に進出 昭和55年まで一月公演が恒例公演として続いた
昭和36年から56年まで東京歌舞伎座8月公演を続け「夏の風物詩」と言われた
昭和35年から51年まで大阪新歌舞伎座 三月公演を続けた

この新歌舞伎時代の定宿は高島屋前の一栄旅館 現ホテル一栄である

新歌伎座にどんな事情があったのか知らないが三波春夫公演が梅田コマでやることになった
客入れが落ち目になったスター程扱いにくい たぶん松竹芸能の勝さんが間に入っていたと思う

梅コマでは最高の布陣でこれを迎えることとなった
今までの劇場では常に狂言方がいるので演出部しかいない梅コマではキガシラ一つ打てない
松竹から狂言方のKさんを借りた その頃は関西歌舞伎が暇な時でお礼を言われた
Kさんとは僕が松竹の仕事をするようになってもよく手伝って貰った

昭和52年 紀伊国屋文左衛門 花登筐 作演出 星由里子 香川桂子 谷幹一 高田次郎 雪代敬子
   限りなき我が歌の道  北村桃児 構成 松島平 演出

 花登筐先生の職人芸とでもいう「これぞ大衆演劇」と言った作品


昭和53年 人情ばなし 塩原多助 大西信行 脚本・演出  葉山葉子 沢村宗之介 雪代敬子
   歌の金字塔  北村桃児 構成 松島平

 大西先生はいかにも正岡容の弟子でございと言う感じの語り口の作品
 主役の馬の「あお」が暴れるシーンで坂東吉弥が馬に蹴られて「泣き]が入った
 調べてみると馬の脚の役者(成駒屋)が商業演劇で大活躍の吉弥に対して「歌舞伎」を大切にしろといいながらけりを入れていた
 吉弥さんに「カイバ料」をはずんでやって下さいとお願いしたら解決した

昭和54年 人情ばなし くらやみの丑松 大西信行 作演出  三浦布美子 御木本伸介 正司照江
  歌の金字塔 北村桃児 構成 松島平 演出

 出来上がった台本を読んで心配した いい本だがとてもコマで上演するような台本じゃない
 文学座の若手あたりが喜んで上演したがる脚本だった
 案の定 三波は理解できず注文を出す 大西先生は絶対直さないと言い張る どうしてもと言うなら本を持って帰ると言い張った
 僕は文芸の部屋に行って「長谷川伸全集」を持ち出した 万が一の場合にそなえてだ
 結局空港に向かう先生を捕まえて「稽古しながら直していく」ということで両方納得させた
 果たして三波は何が何だかわからぬまま公演を終えたが江戸期の庶民の生活をリアルに描いて中々いい舞台だった

おっと自分が担当していないので忘れるところだった 実は三波公演はもう一度あった

昭和56年 一年空いた分正月公演をコマは用意した

元禄秘録 俵星玄番 土橋成男 作演出 三波春夫 三波美由紀 財津一郎 小島秀哉 紅貴代 村田正雄
ヒットパレード 歌の金字塔 北村桃児 構成 松島平演出

この翌年から三波公演は梅コマから消えた
客の入りが目に見えて落ちて来たからである
かわってかって浪曲時代のライバル西川さん率いる新栄プロの村田英雄や同じ事務所の北島三郎の公演がレギュラーとなった

東京オリンピックや大阪万博の旗振り人、国民歌手としてもてはやされた三波春夫は用済みとばかりに国民に見放された


数年後梅沢劇団がやって来た時 そのスタッフを見て驚いた かっての三波公演のスタッフだったからである 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿