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白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(145)ああ軍歌

2016-10-04 06:34:16 | うた物語
 
     ああ軍歌

YouTubeで「虎ノ門ニュース8時入り」を見ていたら その日のコメンテイターの軍事評論家井上和彦が突然「英国東洋艦隊殲滅の歌」を歌いだし司会の居島一平と大合唱となったのを聞いてビックリした この曲は昭和16年日本海軍がマレー沖にてイギリスの戦艦プリンスオブウエールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈したときに出来た歌だ 井上和彦53歳 居島一平に至っては42歳 僕も一度も聞いたこともない歌をなぜ知っているんだ! こんな曲だ!

「英国東洋艦隊殲滅の歌」   高橋掬太郎作詞 小関裕而 作曲 藤山一郎 歌

滅びたり 滅びたり
敵東洋艦隊はマレー半島
クワンタン沖に 今ぞ沈みゆきぬ
勲し赫たり海の荒鷲よ
沈むレパノス
沈むプリンスオブウエールズ

万歳ぞ万歳ぞ
開けあがる勝鬨マレー半島
シンガポールはもはや敗れ去るを
無敵の海軍見よ
この荒鷲
勲仰げ 仰げ勲

ちなみに居島一平というのは「米粒写経」という人の食った名前の漫才コンビの片割れで その歴史、落語 映画、ミステリーなどの知識の豊富さ(これは本当にすごい)を売り物にした漫談で活躍 相方のサンキュータツオも辞書の研究では日本有数の変な早稲田落研出身コンビであり 僕が最近注目している人物だ

僕の父は中支から北支へ歩兵として戦争に行っていた思い出に 教師であったため現地の子供にオルガンで「愛国行進曲」を教えたとある  しかし戦後はおそらく軍歌なるものは一度も口にしたことがない 地区対抗の運動会で「平尾区、平尾区 万々歳」と歌っていた歌が軍歌「歩兵の本領」の替え歌なんて知らずに歌っていた

「愛国行進曲」作詞森川幸雄 作曲瀬戸口藤吉

見よ東海の空あけて
朝日の高く輝けば
天地の正気 溌剌と
希望は踊る 大八州
おお晴朗の朝雲に
聳ゆる富士の 姿こそ
金甌無欠 揺るぎなき
わが日本の 誇りなり

「歩兵の本領」  作詞 加藤明勝 作曲 永井建子

万朶の桜か 襟の色
花は吉野に あらし吹く
大和男子と 生まれては
散兵線(さんぺいせん)の花と散れ

この仕事をしてからは鶴田浩二が軍歌の先生だった
丁度彼が書いた台詞のみの「同期の桜」がヒットした年から梅コマ公演は始まったので他のヒット歌謡曲は沢山あった(好きだった、赤と黒のブルース、街のサンドイッチマン、ハワイの夜、無情のブルース、後に傷だらけの人生)にも関わらず軍歌コーナーは不可欠だった

同期の桜

「昭和20年3月21日 暁光うららかな日
美しく立派に死ぬぞ! そう言って 一番機に向かう友の胸に
俺はまだ蕾だった桜の一枝を 飾って贈った
明日は俺の番だ 死ぬときは別々に なってしまったが
靖国神社で会える その時は きっと桜の花も 咲くだろう
(中略)
4月2日 春雨の降る日
幸か不幸か 俺はまだ今日も生きている
だが 雨が上がり虹が橋を架け 茜色の夕焼け空が広がる時に
俺は必ず往く 後に続くことを信じて
俺たちの死を決して犬死にしてもらいたくないのだ
海軍少尉 小野栄一 身長 五尺七寸
体重十七貫五百 きわめて健康!」

鶴田浩二が好んでショウで歌った曲

「荒鷲の歌」(見たか銀翼 この雄姿 日本男児が精込めて 作って育てた 我が愛機)
「月月火水木金金」(朝だ夜明けだ潮の息吹 うんと吸い込む銅色の) 
「加藤隼戦闘隊」(エンジンの音 轟轟と 隼は往く 雲の果て)
「若鷲の歌」(若い血潮の予科練の 七つボタンは 桜に錨)
「同期の桜」 }(貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く)
「ああ紅の血は燃ゆる」(花の蕾の若桜 五尺のいのち引っ提げて 国の大事に)
「出征兵士を送る歌」(我が大君に召されたる 命栄光ある朝ぼらけ)
「戦友の遺骨を抱いて」」(一番乗りやるんだと 力んで死んだ戦友の遺骨を抱いて)

これらの歌を毎回聞いていてすっかり軍歌ファンになってしまった

鶴田浩二は「同期の桜」の台詞のように自分が「生き残ってしまった」と本気で思っていたが実際は特攻隊ではなかった そのことで彼を批判する人もいるが昭和28年「雲ながるる果てに」で特攻隊員に扮して以来 彼の行動を見ると(高野山に特攻隊慰霊碑を立て 遺骨収集を応援し 遺族会に多大な寄付をした)どう見ても本物の「生き残り」の人生であった

白鷺だより(122)モスリン橋のこと

2016-08-11 07:05:17 | うた物語

           
モスリン橋のこと

藤田まことの唯一のヒット曲に「十三の夜」という曲がある

その3コーラス目に

園田離れて 神崎過ぎりゃ
恋の花咲く 十三よ
やがていつかは 結ばれる
娘(ねえ)ちゃん 娘ちゃん
十三の娘ちゃん モスリン橋を
今日は二人で渡ろうよ

とある このモスリン橋とは何ぞや

調べて見ると 
この橋は尼崎市戸ノ内から神崎川をまたいで西淀川区加島に掛かっている橋で
正式には「毛斯綸大橋」という

モスリンとはフランス語で西洋では主に木綿や毛織物などの糸を平織した薄地の総称であり 
主に下着(ペチコート、スカーフ エプロン)や子供服などに使われた
日本では毛織物を本モスリン、綿織物を綿モスリン又は新モスリンと呼んだ
明治中期政府主導で羊毛工業が開始して 輸入羊毛への関税が撤廃されると
大阪で松本重太郎が毛斯綸紡績を、東京でも東京モスリン紡績が相次いで創業される
その後「日本毛織」が参入して業界最大手となる

大正12年毛斯綸紡績が川辺郡園田村戸の内に新工場を建設 
この地は猪名川と旧猪名川、神崎川と3つの川に囲まれた三角州になっていて
橋がなければどこにもいけない土地だったので
従業員の通勤や生活道路として対岸の加島まで橋を架け「村」に寄付したらしい 
毛斯綸紡績が独自で架けた私設の橋で それにちなんで「毛斯綸大橋」と名付けられた

話は代わるが昭和51年の梅田コマの「淀屋橋物語」も同じく私設の橋の建設の話で(中村扇雀主演)
ラストシーン大きな橋がコマの舞台いっぱいにかかると客席がどよめいた
作・演出は花登筐で美術は古賀宏一であった

当時の毛斯綸紡績は「日本紡績」に次ぐ売り上げ第二位の会社だったが 
第一次大戦後の昭和の大不況のあおりをくらって合併 共立毛織となる、
さらに大戦中は羊毛の輸入制限にかかりあっけなく倒産、
再建後「鐘紡」に買収され戦時産業として航空機部品などを製造していたが空襲で消滅してしまいます 

戦後は沖縄出身者が集まり住宅地、ゴルフ練習場 
また尼崎駅前の青線が集団で移転してチョンの間地帯「神崎新地」と呼ばれる歓楽街となり現在に至っている
 
橋のたもとにある交番は「モスリン交番」という

しかしこの橋は十三の盛り場から随分離れている
 
作詞者藤田まこととしては「モスリン」というどこか懐かしい響きが欲しかったのだろう
それとも何か個人的な7思い出でもあったのだろうか


白鷺だより(119)パクリ歌「宗右衛門町ブルース」

2016-08-08 07:25:25 | うた物語
ぴんからトリオの「女の道」の大ヒット(公称300万枚)を受けて
二匹目のドジョウを捕まえようと東京では 殿様キングスが「なみだの操」を出し 
大阪では吉本専属の音楽ショウの平和勝次とダークホースが「宗右衛門町ブルース」を相次いで出した

結果はドジョウがいたらしく「なみだの操」
(タイトルは最初は「おんなの操」だったがあまりにも二番煎じっぽかったので「なみだの操」になった)
が累計250万枚 「宗右衛門町ブルース」は累計200万枚を超えた 
ちょっと流行ったと思われる千里万里の「大阪ラプソディー」が僅か40万枚だから 
そのドジョウは二匹目も三匹目も大きかったといえる

「宗右衛門町ブルース」の平和勝次は
宮川左近ショウのアコーディオンを弾いていた高島和夫の息子で
弟は篠山タンバという漫才師という芸能一家であった 
富士月子の弟子として浪曲師としてデヴュー 後音楽ショウに転向した

宗右衛門町ブルース


きっと来てねと 泣いていた
可愛いあの娘は ウブなのさ
なぜに泣かすか 宗右衛門町よ
さよなら さよなら また来る日まで
涙をふいて さようなら

銀杏並木に 春が来る
君にも来るよ しあわせが
なぜかさみしい 宗右衛門町よ
さよあら さよなら もう一度だけ
明るい笑顔を 見せとくれ

この歌を聞いたとき「あれっ」と思った
これは北原謙二の昔の曲と同じ曲だ いわばパクリだ 真相はこうだ 
最初は「女の道」と同様自主制作版300枚が認められ 東京で改めて吹き込み(元歌と同じ日本クラウンで助かった) 
この時パクリが発覚したが北原謙二にも作曲者にも許可をとってなんとか販売にこぎ着けた(平和勝次作詞 山路進一作曲)
しかし これが原因で大ヒットにもかかわらず 平和勝次(28)とダークホースは紅白には出られなかったと何かで読んだ
そして彼らは二弾目の「女の舟歌」を出して解散する
 
「なみだの操」の殿様キングスは音楽ショウも芸達者の宮路おさむのお蔭でおもしろかったが
吉本専属だったこのグループの高座は一度も見たことも聞いたこともない
おそらくぴんからトリオと同じく面白くなかったと思われる

元曲は「さよなら さよなら さようなら」(1962)という曲で作詞は星野哲郎であった(作曲は山路進一)
この曲の聞かせどころのサビ「さよなら さよなら さようなら」のフレーズのメロをうまくパクっている

元歌「さよなら さよなら さようなら」

赤いパラソル くるりと回し
あの娘しょんぼり こちらを向いた
町のはずれの つんころ小橋
さよなら さよなら さようなら
雀チュンと啼いて 日が暮れる

きっとまたねと 帽子をふれば
あの娘泣き泣き パラソルふった
忘れられない 初恋小道
さよなら さよなら さようなら
汽笛ポーと鳴れば 思い出す


白鷺だより(118)寅さんの愛唱歌(2)

2016-08-06 08:36:29 | うた物語
寅さんの愛唱歌(2)

おそらく渥美がこんな歌があると歌ったのであろう
「どう、いいでしょう、これでいきましょうよ」
「でも私演歌なんか歌えないわ」
「大丈夫オイラがおしえてあげるよ」
といった感じで「喧嘩辰」になったようだ(推測)

映画で使ったのは3C目の歌詞で1,2番も紹介する

加藤泰監督 車夫遊興伝・喧嘩辰(1964)主題歌
「喧嘩辰」 有近朱美 作詞 関野幾生 作曲


恋という奴ぁ どえらい奴だ
俺を手玉に とりやがる
惚れてなるかと 力んでみたが
泣かぬつもりを 泣かされて
たまらなくなる 俺なのさ

一つ張られりゃ 三つ張り返す
これが男の 意気地だぜ
おっとどけどけ この喧嘩
あほう承知で おしとおす
野暮な御意見 無用だぜ



渥美清は北島の歌が好きでよく口ずさんでいたのでテレビ版「男はつらいよ」の主題歌を作るときプロデューサーの小林俊一はテーマソングを北島の曲を多く作っていた星野哲郎に作詞を頼んだ
まず「愚兄賢妹」の仮題で内容を説明し どんな展開になっても使えるような内容にしてくれという注文だ 
星野は渥美をあまりよく知らず その頃流行っていた「エーザイのユベロン」のCMで「丈夫で長持ち」のキャッチコピーをやっていた彼のイメージしかなく  そのイメージで作った2番「目方で男が売れるなら」のフレーズが出来た

俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ
わかっているんだ妹よ
いつかお前の よろこぶような
偉い兄貴に なりたくて
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も 涙の
今日も涙の日が落ちる
日が落ちる
 (第一話でサクラが結婚してしまった為 しばらくして主題歌の歌詞を変更した
「俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ」を「どうせオイラはやくざな兄貴」と変えた)

ドブに落ちても 根のある奴は
いつかは蓮の花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ
泣いているんだ 兄さんは
目方で男が 売れるなら
こんな苦労も 
こんな苦労も かけまいに
かけまいに
男というもの つらいもの
顔で笑って 顔で笑って
腹で泣く 腹で泣く

これはあくまで想像だが
北島が渥美がレギュラーで出ていた「夢であいましょう」の「今月の歌」で「帰ろかな」を歌った時 
なんらかの両者の接点があったのではないか
それで渥美は北島の歌を好きになりよく口すさんでいたのではないかと想像する

「男はつらいよ」のタイトルも北島の「意地のすじがね」という曲の歌詞で「つらいもんだぜ 男とは」
をひっくり返して作ったと言われる
(前作「泣いてたまるか」の最終回のタイトルが「男はつらい」だったという説もある)

ところで北島本人はこの「喧嘩辰」をさほど好きではなかったと思う 
ボクが北島に付いていた20年間は劇場や地方ツアーでも一度も歌っているのを聞いたことが無い 
クラウンレコードに移籍したばかりの北島にとって「喧嘩辰」の翌年(1065)に発表して大ヒットした三つの曲
すなわち「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」の路線を進めるのが目標だといつも言っていた

また渥美が口ずさんでいたという「意地のすじがね」は聞いたこともない 
何かの曲のB面だと思うが北島音楽事務所の資料の全楽曲歌詞集にも入ってはいない

北島の好き嫌いはべつにしてこの曲は渥美清にとって愛唱歌だったのかも知れない



白鷺だより(117)寅さんの愛唱歌(1)

2016-08-06 07:48:44 | うた物語
寅さんの愛唱歌(1)

今年は渥美清が亡くなって20年とやらで次々と特集番組が組まれている(命日は8月4日)

「フーテンの寅」 第一作を改めて見た
 
この映画で酔っ払って御前様のお嬢さん(マドンナ・光本幸子)と
「こーろーしたいほどほれてはいたがー」と歌っている歌は北島三郎の「喧嘩辰」という曲だ

好きなシーンなので少々長いが採録すると

サクラを嫁に出し気落ちしている寅のために連れ出して
初めてやった大井オートレースで2000円も勝った冬子は寅に
「焼き鳥」(BGMに「喧嘩辰」が流れる)を奢る

その帰り道(帝釈天参道)

冬子「こーおろーし たいほーどー ほーれてーはいたがー」
寅「しー!しっ」
冬子「いいじゃないの 歌ったって <口笛は幼き頃の我が友よ 吹きたくなれば 吹きて遊びき>・・・うふふ こーろーしーたいほーど」
注・石川啄木の本歌は「晴れし空仰げばいつも口笛を 吹きたくなりて 吹きてあそびき」

(題経時山門

寅「お嬢さん みんな寝てるんですよ!ね、ね!」
冬子「じゃあ寅ちゃん、私たちも休みましょうか」
寅「そうですね」
冬子「じゃあ、寅ちゃん・・・」
寅「へい」
冬子「さよなら」(戸を開く)
寅「あ、これ」(ハンドバッグを渡す)
冬子「どうも・・ありがと」(戸から手を出す)
寅(その手をそっと握り)
冬子「おやすみなさい」・・・「さようなら」
寅「・・・・・」
冬子「ゆーびもおーふれずーに わーかれえたぜー」
歌声がきえるまで見送る寅 至福の顔 
握って貰った手を見つめ 参道を歌いながら歩く
寅「こーろーしたいほーど 惚れてはいーたーが とくりゃあ!
ゆうびもふれずーに わーかれーたあーぜ
浪花節だと 笑っておくれ
野暮な情けに生きるより(注 元歌はケチな情け)
俺は仁義にいきてえーゆーく(注・元歌は俺は仁義を抱いて死ぬ)」

(寅 とらやを通過して行ってしまう)

このあと有頂天になった寅は冬子が「親戚になる男」がいることを知り奈落に突き落とされ又旅に出るという展開になる 
この有頂天ぶりが大きければ大きいほど その落差が大きくなるという重要なシーンである

ところで第二稿まではこの歌は菅原洋一の「知りたくないの」であった

<題経寺門前>

冬子「あーのひとの ことはー 忘れてほしいー(門前でそっと手を出す)
寅「・・・・}(思い切って握手する)
冬子「(ニッコリ笑って)おやすみなさい
寅「(ぞくっと震えて)おやす・みなさい」
冬子「あなたーの あいが まーこーとなら ただそれだけで うれしーいーの」と去る
茫然と見送る寅 銀鈴をふるような冬子の美しい唄声が森の精のように闇に消えて行く
寅 神妙な顔でペコっと頭を下げ引き返し始めるが 次第に表情がゆるみ やがてその口から朗々と歌声が流れ出す
寅「あなたーの 愛が まーことならー ただそれだけーで うれしいの」
夜のほとんど閉まった参道を寅 踊るような足取りで歌いながら歩いて行く

さてどちらの歌が正解であったのか
                   以下次回