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白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(31)トップホットシアターのこと(5)その間僕がやったこと

2025-06-26 21:12:43 | トップホットシアター




トップホットの大道具の村上のお父さんはOSミュージック時代からこの劇場にいて
いわば生き字引である。僕が初めて演出した時「あんた昔の花登そっくりやな 知ってるやろ、花登コバコ」と言ってくれた。
誉め言葉に取りたいと思った.

お父さんはストリッパーの間で巨根で有名だった。彼が風呂に入っていると女どもが大勢見物にきたという。

照明のDさんは競馬のノミやもしていた。
悪いあそびを教えてもらった。 

東京のW大を出た顔見知りの村上君が宝塚に入ったと挨拶に来た。
村上君とはそのあと毎日放送のイベントで再会する。
その時はかれは岡田敬二さんの演出助手をやっており その下に小池修一朗が走りまわっていた。

昭和47年≪25歳)
コマ新喜劇の脚本・演出  奥津由三・赤井タンク・西川太市、三好正夫ら
月10日ごとに上中下席ということで月3本を何人かで書いていた
処女作は「おまわりさん」交番爆破を繰り返す若者を描き、その公演中に大阪市大前の交番爆破事件がおきる 
公演中止の話も出たが劇場顧問の香川登志緒氏の計らいで
「所詮喜劇というものは現実を描くものだ、世の中をよく捉えた吉村を誉めてやっても、中止の必要無し」
と言ってくれた話を聞いて香川さんを勝手に師匠と呼ばしてもらっている。(この話は別掲)
学生時代 西宮北口の梅田方面の壁面に梅田コマの看板があり その横にトップホットシアターの案内があったことを思い出して
見に行くと茶川一郎さんの芝居(花登筐作「新夫婦漫才」)の横にトップホットの上中下席の案内があり その下席の看板には吉村正人作・演出「おまわりさん」と名前が入っていて何となく嬉しかった 

以後辞めるまで二月に一回のローテーションで脚本演出、
 なお一緒に新喜劇を書いていたのは山路洋平、塩田誉之弘、志織満介 先輩の中川淳一郎 そして僕

昭和48年 中日劇場 中日喜劇で初めて商業演劇の舞台監督 
     「花のお江戸の悪太郎」「どんごな子」
有島一郎 芦屋雁之助 芦屋小雁 他 
大きな商業演劇の舞台のことは何にも判らない僕に舞台監督のイロハを教えくれたのは前進座のご出身でいつもベレー帽を被った東さんという舞台事務所の方であった。
丁度 中日の舞台部の人たちも僕と同じような若さで 同じように素人であり 同じように叱られた。
(その頃の泊まりは中藤旅館という和風旅館だった。大部屋の役者さんたちとスタッフが泊まって毎日マージャンしながら夢を語ったものだ)(この話も別掲)

関学卒業 ミキサー室で書いた卒論が通り 無事卒業させてもらった。経済学学士である。
ひとえにゼミ担任の天川潤次郎のお蔭である。

昭和50年(27歳)  大阪三越劇場 緒形拳主演の「王将」 舞台監督 北条賞戴く
 谷口完、西山辰夫、ら関西の新劇の人々、北条さん好みの千草、淀川、杉浦エノスケなどの役者を集めて緒方の周りを固めた。 緒形さんは渾身の演技だった・・(この話は白鷺だより(6)王将(その1)参照)

6月結婚する 仲人は天川教授夫妻 式は関学のチャペル 披露宴はトップホットに近い新阪急ホテル
タレントたちが出番が終わった順に祝いに駆け付けてくれた。

この頃トップホット閉鎖の噂
結婚したてで仕事がなくなる恐れ
構成作家でもなるかと新野新先生に大国町のお宅まで行って相談すると OBCの女性プロデューサーを紹介するという。
意を決して逢いにいくと「かわいいわ」と迫られ逃げる

同じく昭和50年 キャバレーまわりのショウの舞台監督
(この話は白鷺だより(26)初めてコマの仕事をした 参照)
そのままコマの文芸部に「渡りに船」とばかりに潜り込む。


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