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白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(170)「少しは私に愛を下さい」

2016-12-07 19:50:30 | うた物語
「少しは私に愛を下さい」

僕の銀行の歴史はまず関学に入った時 地元の甲東園駅前にあった「神戸銀行」甲東園支店であった 「華麗なる一族」で有名なこの銀行は1973年「太陽銀行」と合併して「太陽神戸銀行」となる さらに三井銀行と合併 太陽神戸三井銀行となりのち「さくら銀行」となり さくら銀行と住友銀行が合併して「三井住友銀行」となって現在に至る
一方僕はトップホットに入って給料振り込みの都合上 銀行を三和銀行梅田支店に変えるが やがてここも合併を繰り返して「東京三菱UFJ銀行」となった

合併によるややこしさは我々外部の人間にとっても少なくともあるが 合併した内部の人たちにとっては「半沢直樹」(モデルは東京三菱UFJ)に見るように何らかの葛藤と苦しみがあったに違いない
東大法学部を出て日本勧業銀行に入った神田紘爾はその頃ちょうど銀行からの派遣で長期出張中(米・ノースウエスタン大学留学)であった 第一銀行との合併の話が出たのは1971年のことで 出張を終え帰ってきた時 かっての職場は「第一勧銀銀行」と名前を変えかっての自分の机はもはやなかった 
そのとき思わず作った歌がこの「少しは私に愛を下さい」だ

   「少しは私に愛を下さい」

少しは私に 愛を下さい
すべてを あなたに捧げた私だもの
一度も咲かずに 散ってゆきそうな
バラが鏡に 映っていたわ
少しは私に 愛を下さい

たまには手紙を 書いて下さい
いつでも あなたを思う私だもの
あんたの心の ほんの片隅に
私の名前を 残してほしいの
たまには手紙を 書いてください

みぞれの捨て犬 抱いて育てた
やさしいあなたを 思いだしているの
少しは私に 愛を下さい

(1コーラス目にあるバラはかっての勧銀のマークである)

彼はこれをきっかけに彼は作詞作曲活動を始める そうすることが精神のバランスを取るのに最適の方法だった
彼が「小椋佳」のペンネームでレコード大賞受賞曲「シクラメンのかほり」などヒット曲を連発するのは1975年以降であるが 1993年最後は浜松支店長として退職するまで「第一勧業銀行社員」サラリーマン歌手であった 

彼が辞めた後 2002年 銀行は富士銀行と共に「みずほ銀行」となった


白鷺だより(157)二つの「娘よ」

2016-11-09 14:28:40 | うた物語
 二つの「娘よ」

「夢であいましょう」の今月の歌で益田喜頓が歌った「娘よ」(1964年6月)
いつか僕にもこんな日が来るのだろうかと思っていたが未だに来やしない 娘よ頑張れ!
長くなるがこんな歌だ 
もちろん作詞 永六輔 作曲 中村八大

娘よ 話してやろう パパがママと
初めてくちづけした日のことを
夏休みのキャンプ場の夜だ
ホタル狩りにはまず目を閉じて
静かに開けろと教えておいて        
(セリフで)キスしちゃった

娘よ 話してやろう パパとママが
初めてケンカした日のことを
結婚して七年たって
パパはあったのさ 初恋の人に
二人で子供を自慢しあって
ママのやきもちさ

娘よ 教えてやろう パパとママが
初めて二人で 泣いた日のことを
おとといの お昼過ぎ
素敵な若者が お前を欲しいと
申し込んだぞ お前の恋人だ
あとで泣けてきた

娘よおめでとう パパもママも
あの野郎が とっても好きになったよ
(つぶやく)あん畜生が

「こんにちは赤ちゃん」が作曲の中村八大の長男誕生を祝って作られたように この曲も永の娘の千絵や麻里の嫁ぐ日のことをイメージして出来た曲だろう
ちなみに永六輔の奥さんは慶応ボーイの婚約者がいる新人女優だったが 売れっ子構成作家の永に「君は女優なんかなるより僕と一緒になるべきだ」と言われ続け結婚した

この曲は益田喜頓のいい味が出てその頃 ちょっと評判になったがヒットとは至らなかった

そして何年か後1984年(昭和59年)芦屋雁之助が初めて出した新曲のタイトルを聞いて「その題名の曲はすでにあるよ」とマネージャーのHに教えたのは同じ事務所の僕であった レコード会社もそんなことは百も承知で前作がさほどヒットしなかったのでこのタイトルで発売したのであった もちろんその時にはこの曲が単なる役者の余興であってよもやあっという間に歌謡番組を総なめして年末のレコード大賞特別賞を受賞し100万枚売り上げてしまうとは思いもしていなかったのである

雁之助版の「娘よ」で作詞の鳥井実が

嫁に行く日がこなけりゃいいと
男親なら 誰でも思う
早いもんだね 二十歳を過ぎて
今日はお前の 花嫁姿
贈る言葉はないけれど
風邪をひかずに 達者でくらせ


と切々と男親の気持ちを詩にしているが それを永六輔は
(つぶやく)あん畜生め   と一行で片づける
 
この二つの「娘よ」が共に喜劇役者なのがおかしい それも日本の東西を代表するコメディアンだ しかも二人ともに森繁久彌の大のお気に入りときている
雁之助が舞台稽古で吊ものが下りてきてケガをしたとき「お前たちはこんな名優をころすのか」と支配人を殴った話は前にも書いた 益田喜頓の時は「屋根の上のヴァイオリン弾き」の稽古中 牧師役の彼のワイヤレスマイクが故障してダラダラと付け直しに行ったミキサーを「いつまで先生に待たせるんだ」と殴ったことがある 長い舞台稽古に皆が疲れていたのだろう しかしその時まで我々は益田喜頓が「あきれたボーイズ」あがりの単なるコメディアンという認識しかなかった

さて この「娘よ」には同タイトルの曲がもう一つある
藤岡藤巻という「崖の上のポニョ」を歌った音楽ユニットの曲でこんな詩だ

娘よ 実は父さんは今好きな人がいる
その人はお前より多分年下だと思う
六本木という街で 先週出会ったんだ
その人が働いてる店で

といった具合にこの嫁も子供もいる中年男の恋物語を延々と歌いあげ店も六本木から歌舞伎町へと変わり そして最後に振られる
このユニットの名曲「息子よ」のカップリング曲だ YouTubeなどで聞いて下さい

白鷺だより(151)老女優は去りゆく

2016-10-15 07:46:54 | うた物語
  老女優は去りゆく

 僕がこの曲と出会ったのは梅沢劇団の市川吉丸に誘われて行った名古屋のとあるゲイバーのショウの中だった 
美輪明宏の歌に合わせてブサイクな彼女(彼?)が女優を演じて笑わし、そして泣かせた

老女優は去りゆく 美輪明宏 作詞・作曲

これでお別離なのね この劇場も
化粧を落として 煙草をふかせば
思い出すわ あの頃を 過ぎた昔を
女優を夢に抱いて 街へ来た頃を
私は十六 田舎訛りで
震えながら訪ねた ここの楽屋口

長い下積みの後で やっとありついた
端役でも 私は嬉しかったわ
それからはだんだんと 主役になれて
輝くスポットライト 浴びた歓び
楽屋には花々 拍手の嵐
取り巻きの人々 甘い生活

「でも若くして成功した誰しもがそうであるように 私もついいい気になっていた
その後 数多くの失敗が続いた 批評家には叩かれ 主役はライバルに持って行かれた
おまけに愛する夫は 若い女優と駆け落ち たった一つの心の支えだった子供は病気で死んで 
それを優しく慰めてくれていたあの人も事故で死んだ

ふと気が付くと まるで潮が引くように 私の身の回りから人々が遠ざかっていた
孤独の中で毎晩、毎晩浴びるようにお酒を飲んで やがてアルコールと麻薬の中毒、そして入院 
あの泥沼の中から這い上がるまでにどんな思いをしたか決して誰にも判らないわ
世間では私のことを再起不能と嘲笑っていた 落ちぶれた過去のスター! 落ち目の流れ星!

・・・もう一度 舞台に立ちたい あのスポットライトの下で拍手を浴びたい
私は恥を忍んでカムバック目指して通行人の端役から出直した 人々の同情の眼 蔑みの
眼にも耐えた なぜならば私には女優としての誇りと自信があったから 
でもその後の想像を絶する人々の悪意 意地悪 屈辱の数々 
でも私は負けなかったわ 耐えて耐えて耐えて耐え抜いた 

そしてとうとうあの念願かなったカムバックの日 
太陽のように輝くスポットライト 嵐のような拍手を私は一生忘れないわ

色んな役をやった 女王も 娼婦も 人妻も 娘も 
でもそれらは 今は夢幻のように消えて 私はすっかり老いさらばえて
今日 この劇場で引退していくのだ」

そうよ この劇場は解かっているのね
舞台に人生を 賭けた私を
私の何もかも 生きて来た道を
さようなら愛する 我が劇場
老兵は静かに 消え去るのみ
出ていくまで明かりは 消さないでね
出ていくまで明かりは 消さないでね

「ありがとう、ありがとう」

この一曲で長編のドラマ(しかも古きヨーロッパの)を見るような構成でよくできている
YouTubeで見ると演じている(歌っているのではない)美輪の演技も見事で人気絶頂の時は「こうまんちき」な顔となり 落ちぶれたときもプライドだけは忘れずすっかり老婆になって引退するときもちょっぴり寂し気に去っていく それでも大女優だったというプライドだけは忘れない

さて日本においてこのような女優はありえるのだろうか ノーである
まず日本ではよっぽどの事件(殺人、麻薬)を起こさないと落ち目にはならない 
ある程度の地位を築いた女優は単に演技力のなさぐらいで干されることはない
あり得るとしたら何とか先生(男優、脚本家、演出家)の愛人とかいう立場の女優である
先生が亡くなったり 消えていったりという理由で干されるということが多々ある
先生に敵が多かった場合 各プロデューサーは手のひらを返すように使わなくなる
何人かはそうして消えていったが元々演技力がないので再起することはなかった

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白鷺だより(150)「学生時代」の替え歌

2016-10-14 07:17:33 | うた物語
「学生時代」

蔦の絡まるチャペルで 祈りを捧げた日・・・・
 
昭和39年平岡精一が作詞作曲 青山学院高等部を出たペギー葉山が歌ってヒットした「学生時代」は我々の時代(昭和41年~)になり替え歌となって甦った 
勉学、読書 クラブ活動、恋愛 夢多かりしさわやかな「学生時代」のイメージが180度転換したからである
 
まずはブント(社学同)系のセクトの定番で

(1) ビラの舞い散るキャンパスで ストライキをアジった日
デモ多かりしあの頃の 思い出をたどれば
懐かしい同志の顔が(憎らしいポリの顔が)一人ひとり浮かぶ
重い丸太抱えて(重い赤旗抱えて)通ったデモコース
秋の日の三里塚 汗と流血の匂い
石ころ飛ぶ羽田 学連時代(学生時代)

(2)インターを歌いながら 革命を夢見た(インターナショナルの歌)
何の授業にも出ずに 単位も取らずに
胸の中に秘めていた 暴動への憧れは
いつもはかなく敗れて 一人帰る下宿
本棚に目をやれば あの頃読んだマルクス(革マルは黒寛)
素晴らしいあの頃 学連時代(学生時代)

(3)サーチライトに輝く 装甲車を乗り越え
共にスクラムを組んで 闘った学友
そのやつれた横顔 兄のように慕い
いつまでも日和らずにと 誓った女子学生
清水谷 明治公園 懐かしいデモは帰らず(関西では円山公園 御堂筋)
素晴らしいあの頃 学連時代(学生時代)

この歌は日大闘争ではこうなる

立て看の連なる並木で アジびらを配った日
デモ多かりし あの頃の 思い出をたどれば
懐かしいミン(日共系民青が彼らの敵だった)の顔が ひとつひとつ浮かぶ
重い旗竿を担いで デモったあの頃
下高井戸 御茶ノ水 神田三崎町
懐かしいあの頃 日大闘争

そして元歌はこうだ

1 蔦の絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
夢多かりし あの頃の 思い出をたどれば
懐かしき友の顔が 一人ひとり浮かぶ
重いカバンを抱えて 通ったあの道
秋の日の 図書館の ノートとインクの匂い
枯葉の散る窓辺 学生時代

2 讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た
何の装いもせずに 口数も少なく
胸の中に秘めていた 恋への憧れは
いつも儚く敗れて 一人書いた日記
本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
過ぎし日よ 私の学生時代

3 蝋燭の灯に輝く 十字架を見つめて
白い指を噛みながら 俯いていた友
その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでも変わらずにと 誓った幸せ
テニスコート キャンプファイヤー 懐かしい日々は帰らず
素晴らしいあの頃 学生時代
素晴らしいあの頃 学生時代

(3番はさり気なくその年代にありがちな S(エス)の世界を描いている)

平岡清二もペギー葉山もこの曲がかように変貌するとは思ってもいなかったであろう
そう 学生時代そのものが変貌してしまったのである

実際の学生時代は元歌のようにきれいな思い出の中にあるものではなく
愚かな劣等感や不安や後悔で一杯なものだ
その意味では替え歌の方が僕にとってぴったりな「学生時代」ではある

僕が通っていた関学もプロセスタント系のキリスト教の綺麗な学校であった
教会もチャペルもあった 讃美歌も歌った 
この教会の牧師の息子が当時 文学部の委員長で全学ストを指揮した
父親はすぐに教会を辞め 近所でパン屋を始めた

白鷺だより(148)歌のおばちゃん

2016-10-10 07:46:26 | うた物語
     歌のおばちゃん
病気以来リハビリで週一回にペースで通っている近くのクリニックには変わった女性患者がいる 
大声でソプラノ歌手のように両腕を前で合わせて唱歌(歌謡曲ではない)を歌うのである 
それもその季節に合った歌をである 
例えば春の初めには「早春賦」(春は名のみぞ風の寒さや)や「どこかで春が」「春よ来い」などであり 
梅雨時には「あめふり」(あめあめふれふれ母さんが)や「かたつむり」を歌うのである 
だから彼女の歌を聞いて我々患者は季節の移り変わりを知るのである 
この季節は「里の秋」や「小さい秋見つけた」がもっぱらの歌である 
その「里の秋」にはこんなエピソードがある

「里の秋」斎藤信夫作詞 海沼 実作曲 川田正子歌

静かな静かな 里の秋
お瀬戸に木の実が 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実煮てます 囲炉裏ばた

明るい明るい 星の空
なきなき夜鴨の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔 
栗の実食べては思い出す

この少年と母はなぜ二人きりなのか 父は出征しているのである 軍からの知らせによれば遠く南方の島であった そして終戦が過ぎても未だに帰って来ていないのである
この曲はNHKの引揚げ者家族を励ますための番組のテーマソングとして作られた曲だった 
急な注文だったので昔の詩(星月夜)をチョッと替えて作った曲だ
僕の父も引き揚げが昭和22年だったから母はこの番組をかじりつて聞いていたはずだ

さよならさよなら 椰子の島
お舟に揺られて 帰られる
ああ 父さんご無事でと
今夜も母さんと 祈ります

その昔の原詩はこうだ(昭和12年発表)

3番 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って下さいと
   ああ 父さんのご武運を 今夜も一人で祈ります
4番 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな
   ねえ かあさんよ 僕だって 必ずお国を 守ります

戦前の唱歌には軍事色の強い歌詞で一杯である 例えば
「船頭さん」

1  村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん(僕68だ)
   年は取っても お舟を漕ぐときは 元気いっぱい魯がしなる 
   それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
2  雨の降る日も 岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん
   今日も渡しでお馬が通る あれは戦地に行くお馬
   それ ぎっちら ぎっちら ぎったらこ
3  村の御用や お国の御用 みんな急ぎの人ばかり
   西へ東へ船頭さんは 休む暇なく船を漕ぐ
   それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

「汽車ぽっぽ」元歌 「兵隊さんの汽車」(昭和13年)

汽車汽車ポッポ ポッポ シュッポシュッポシュポッポ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポ シュッポシュッポシュポッポ
僕らも手に手に日の丸の 旗を振り振り送りませう
万歳 万歳 万歳 兵隊さん 兵隊さん 万々歳

昭和19年に発表された「お山の杉の子」の4番5番

4  大きな杉はなんになる 兵隊さんを運ぶ船
   傷痍の勇士の寝るお家 寝るお家
   本箱 お机 下駄 足駄 おいしい弁当食べる箸
   鉛筆 筆入れ そのほかに
   うれしや まだまだ役に立つ 役に立つ
5  さあさ負けるな 杉の木に 勇士の遺児なら なお強い
   身体を鍛え 頑張って 頑張って
   今に立派な兵隊さん 忠義孝行 ひとすじに
   お日様出る国 神の国
   この日本を護りましょう 護りましょう

最近はクリニックに行く時間を朝一番にしたので彼女の歌に逢えるチャンスが無くなった
彼女が歌う唱歌はそれこそ昭和の心だ もとの時間に戻して聞きに行こう
歌のおねえさんというには少々年を行き過ぎている 歌のおばちゃんの歌声は今も響いている

彼女は実はお察しの通り少し痴呆症を患っているが歌詞だけは実に一字一句間違わずに正確に歌う 
音楽の持つ力は偉大だ」とつくづく思う