白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(122)モスリン橋のこと

2016-08-11 07:05:17 | うた物語

           
モスリン橋のこと

藤田まことの唯一のヒット曲に「十三の夜」という曲がある

その3コーラス目に

園田離れて 神崎過ぎりゃ
恋の花咲く 十三よ
やがていつかは 結ばれる
娘(ねえ)ちゃん 娘ちゃん
十三の娘ちゃん モスリン橋を
今日は二人で渡ろうよ

とある このモスリン橋とは何ぞや

調べて見ると 
この橋は尼崎市戸ノ内から神崎川をまたいで西淀川区加島に掛かっている橋で
正式には「毛斯綸大橋」という

モスリンとはフランス語で西洋では主に木綿や毛織物などの糸を平織した薄地の総称であり 
主に下着(ペチコート、スカーフ エプロン)や子供服などに使われた
日本では毛織物を本モスリン、綿織物を綿モスリン又は新モスリンと呼んだ
明治中期政府主導で羊毛工業が開始して 輸入羊毛への関税が撤廃されると
大阪で松本重太郎が毛斯綸紡績を、東京でも東京モスリン紡績が相次いで創業される
その後「日本毛織」が参入して業界最大手となる

大正12年毛斯綸紡績が川辺郡園田村戸の内に新工場を建設 
この地は猪名川と旧猪名川、神崎川と3つの川に囲まれた三角州になっていて
橋がなければどこにもいけない土地だったので
従業員の通勤や生活道路として対岸の加島まで橋を架け「村」に寄付したらしい 
毛斯綸紡績が独自で架けた私設の橋で それにちなんで「毛斯綸大橋」と名付けられた

話は代わるが昭和51年の梅田コマの「淀屋橋物語」も同じく私設の橋の建設の話で(中村扇雀主演)
ラストシーン大きな橋がコマの舞台いっぱいにかかると客席がどよめいた
作・演出は花登筐で美術は古賀宏一であった

当時の毛斯綸紡績は「日本紡績」に次ぐ売り上げ第二位の会社だったが 
第一次大戦後の昭和の大不況のあおりをくらって合併 共立毛織となる、
さらに大戦中は羊毛の輸入制限にかかりあっけなく倒産、
再建後「鐘紡」に買収され戦時産業として航空機部品などを製造していたが空襲で消滅してしまいます 

戦後は沖縄出身者が集まり住宅地、ゴルフ練習場 
また尼崎駅前の青線が集団で移転してチョンの間地帯「神崎新地」と呼ばれる歓楽街となり現在に至っている
 
橋のたもとにある交番は「モスリン交番」という

しかしこの橋は十三の盛り場から随分離れている
 
作詞者藤田まこととしては「モスリン」というどこか懐かしい響きが欲しかったのだろう
それとも何か個人的な7思い出でもあったのだろうか


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