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白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(216)村の鍛冶屋

2017-03-08 20:39:44 | うた物語
  村の鍛冶屋

朝のワイドショウの特集で堺の包丁鍛冶をやっている人を紹介していた 中国やベトナムから大量生産の安い品が入ってきて一つ一つ手作りでやっている彼のような職人はいなくなったという 真っ赤になった鉄を槌でうっていく作業を見ていると自然と「村のかじや」の歌が口に出る

この歌は大正元年に制定された尋常小学唱歌である 元歌はこんな歌詞だ


暫時(しばし)も止まずに 槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
ふゐごの風さえ 息をもつかず
仕事に精出す 村の鍛冶屋

あるじは名高き いっこく老爺(おやぢ)
早起き早寝の 病(やまひ)知らず
鐡より堅しと誇れる腕に
勝りて堅きは彼がこころ

刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬(さくくは) 鋤よ鉈よ
平和の打ち物 休まず打ちて
日毎に闘ふ 懶惰(らんだ)の敵と

稼ぐにおひつく 貧乏なくて
名物鍛冶屋は 日々に繁昌
あたりに類なき 仕事の誉
槌打つ響きに まして高し


この歌詞は明治36年度の「尋常小学読本」巻八の第十に「かじや」というタイトルで 昔刀鍛冶であった爺さんの話をヒントに作られたものである

しかし昭和17年「初等科音楽(2)」では三番以降の歌詞が戦時下の国策に不適当として削除 また一番の「しばしもやまずに」が「休まず」に 「飛び散る火の花」を「飛び散る火花よ」に変更 「あるじは名高きいっこく老爺」が「あるじは名高いいっこく者よ」に変更され 次のような歌詞となった


しばしも休まず 槌打つ響
飛び散る火花よ はしる湯玉
ふゐごの風さえ 息をもつかず
仕事に精出す 村の鍛冶屋

あるじは名高き いっこく者よ
早起き早寝の やまひ知らず
鐡より堅いと じまんの腕で
打ち出す刃物に 心こもる


さらに終戦後は文語調が子供には難しいとの理由からタイトルの「村の鍛冶屋」が「むらのかじや」に変更 「刃物」を「鋤鍬」に変え さらに手を加えられた こうだ


しばしも休まず 槌うつ響き
飛び散る火花よ はしる湯玉
ふいごの風さえ 息をもつかず
仕事にせいだす 村のかじや

あるじは名高い働きものよ
早起き早寝の やまい知らず
永年きたえた じまんの腕で
打ち出す 鋤鍬 心こもる


しかし昭和30年代になって農林業は次第に機械化されるにつれて村々から鍛冶屋が消えていく 
鍛冶屋が作業場で槌音を立てて働く姿が児童には想像しにくくなった昭和52年の教材から削除された

白鷺だより(201)流行歌になった歌舞伎(補遺)

2017-02-07 10:55:50 | うた物語
流行歌になった「歌舞伎」(補遺)
白鷺だより(83)(84)に書いた「流行歌になった歌舞伎」(1)(2)以外にもこんなのが見つかったので記録しておく

青砥縞花虹彩画 稲瀬川勢揃いの場
「白波五人男」 正岡容 作詞 古賀政男 作曲
      唄    楠木繁夫 美ち奴 藤山一郎 木村肇 杵渕一郎

(問われて名乗るもおこがましいが)
生まれ遠州 浜松在で 
義賊との噂 高札や
六十余州に 隠れなき
日本駄右衛門 伊達男

(さてその次に控えしは)
平生 着慣れた 振袖姿
髪も島田に 由比ヶ浜
鎌倉無宿 肩書も
弁天小僧 菊之助

(また その次に連なるは)
お小姓姿の あの月の眉
花水橋の 斬り取りに
今牛若と 名も高き
おいら赤星 十三郎

(続いてあとに控えしは)
月の武蔵を 股旅草鞋
碁打ちと名乗る 三度笠
抜け詣りから グレ出した
忠信利平 江戸育ち

(さて どんじりに控えしは)
どうせ仁義も 白河夜船
波間に踊る 稲妻は
白刃で脅す 人殺し
南郷力丸 舟盗人




実際の口上は例えば弁天小僧に例をとると

「さてその次は江の島の 岩本院の稚児上がり 
平生着慣れし振袖から 髷も島田に由比ヶ浜 
打ち込む波も しっぽりと 女に化けた美人局
油断のならぬ小娘も 小袋坂に身の破れ
悪い浮名も竜の口 土の牢にも二度三度
だんだん超える 鳥居数
八幡様の氏子にて 鎌倉無宿と肩書も
島に育って その名さえ 弁天小僧菊之助」




白鷺だより(185)通州事件「夢の子守歌」

2017-01-09 07:53:14 | うた物語
通州事件 「夢の子守歌」

戦前の中国での事件に「通州事件」が ある
昭和12年 北京東方の通州には親日政権が作られていたが7月29日日本の駐屯軍不在の間に その政権の中国軍部隊(保安隊)が日本人居住区を襲い日本人居住民385人中 子供や女性を含む223人が惨殺された事件である
この事件の経緯を見るといかに中国民族というものが野蛮で残酷だということが判る
とても日本人では出来えない行為で これが後にありもしない南京大虐殺のヒントになっていると思われる

その事件は極東裁判でも裁判長に却下され 議題にも上がらず戦後完全に抹殺(無かったこと)された
現在も教科書にも載ることはない(長崎で使われている「新しい歴史教科書を作る会」の教科書には南京事件は消えて通州事件を載せている)
詳しくはウイキペディア 「通州事件の惨劇(Sさんの体験談)」「消された通州事件」などで検索して調べて貰うこととして最近刊行された参考書だけを挙げておく

    自由社の「通州事件 目撃者の証言」
    加藤康男著「慟哭の通州~昭和12年夏の虐殺事件」

などをお読みしてもらうことととして
ここでは事件を発端に作られた歌謡曲 芝居のことを書きとめようと思う

夢の子守歌

 原田國男 作詞 山下吾郎 作曲 松島詩子 唄
(昭和12年)

坊やの母ちゃん 何処(どこ)行った
戦の後の 夕間暮れ
野露に濡れて 蟋蟀(こおろぎ)が
哀しい聲で 鳴いていた

烏は塒(ねぐら)に 帰るのに
坊やの 母ちゃんなぜ来ない
怨みは深し 通州の
お空にゃお月さん 泣いていた

母ちゃん独りでどこ行った
野超へ 山超へ 川超へて
外は日暮れて やるせなきゃ
知らぬ お宿に眠るでしょう

坊やは玩具(おもちゃ)はもう要らぬ
綺麗なおべべももう要らぬ
夜毎お夢で 聞く歌は
母ちゃん 懐かし 子守歌


恨みは深き 通州城  
(昭和12年)
  佐藤惣之助 作詞 古賀政男 作曲 奥田英子 唄
  これはまた当時のゴールデンコンビの作品である

思い出すたび 西空に
篤(あつ)い涙を 手向けましょう
二百余人の同胞(はらから)が 露と消えたる惨劇の
恨みは深し 通州城

夢も儚き 七月の
廿九日の 明けの空
響く銃音(つつおと)物音は
賊か 鬼畜か 反逆の
一語に狂う 保安隊

暗い民家に 武器はなく
頼む夫は 斃されて
愛し我が子を 懐に
大和撫子 散るもあり

忘れようとて 忘られぬ
悲し恨みは 何時までも
西に流れて草を染め 
赤い廃墟の夕焼けは
秋風寒し 通州城

果たしてこの二曲はヒットしたのであろうか



演劇の方もこの事件を取り上げている

真山青果 嗚呼通州城

その年の9月に明治座で 真山青果作「嗚呼通州城」を河合武雄 井上正夫らの出演で上演された 
この戯曲は同10月「講談倶楽部」に掲載されたが後に「真山青果全集」に収録された

とき 昭和12年7月29火午後から夜にかけて
場所 通州城内にある日本旅館「銀明楼」(錦水楼がモデルと思われる)
主役は銀明楼の女将 磯尾たみ(35)

目撃談によるとこの「錦水楼」はもっとも残虐に襲われたようで 女将の最後は次のようである

「錦水楼入口で女将らしき人の死体を見た 足を入口に向け顔だけに新聞紙がかけてあった 本人は相当に抵抗したらしく着物は寝た上で剥がされたらしく上半身も下半身も暴露し四つ五つ銃剣で突き刺した跡があった 陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた 帳場や配膳室は足の踏み場もないほど散乱し略奪の跡をまざまざと示していた」

戦後再刊された「真山青果全集」には自主規制か どこからかの圧力があったか 作品が消えている

このように当時は歌でも芝居にでも取り上げられ日本国民が全員悲しみ憤った事件だが
今や誰も知らない事件となっている



白鷺だより(183)「愛の道」

2017-01-05 18:16:12 | うた物語
      愛の道

 昭和48年6月 愛知県刈谷市民会館での「畠山みどりショー」でゲストの八代英太さんが予定より早く降りたセリの穴に転落 八代さんは脊髄を損傷以後車椅子生活を余儀なくされる 噂では畠山がこの会館にセリ施設があることを知り 前半の歌コーナーが終わった後 八代さんが着替えの15分を繋いでいる間に 次の出をセリで上がりたいといったので 会館職員が八代コーナーが終わる前にセリを下したため その穴に八代が転落して脊髄を損傷したという
民事での裁判は10年以上に及びましたが 総額一億円で和解ということになり 刈谷市が7000万 畠山が2500万 興行主が500万支払うこととなった
たしか刑事事件でも刈谷市の舞台係は有罪となったと思う
この事件は当時我々舞台監督をやっている者にとって重大な事件だった
舞台監督がスターに無理を言われたらそれを断るのは至難の業である 
それで怪我人でも出そうものなら業務上過失傷害罪に問われる
こういう時は「急な変更は危険です 次回夜の部はキチンと打ち合わせをした上でやらせて頂きます」・・・が正解である

その後八代は車椅子議員として活躍 小泉内閣では郵政大臣まで務めた
畠山と同じクラウンレコードの所属というわけでもなかろうが北島三郎に八代の奥さんが作詞した歌を歌うということになった 「愛の道」~押させてください車椅子~という歌であった 作曲は北島のペンネームの原譲二 八代が最初に立候補した時である

      愛の道 
             八代富子 作詞 原譲二 作曲
あなたの肩に 舞い落ちた
冷たい雪はいつ解ける いつ解ける
振り返ることなど 出来ぬと知りながら
今日も行く行く 無念坂
険しき道 されど我が道 愛の道
押させて下さい 車椅子

あなたの頬に 吹き付ける
冷たい風は いつ止むの いつ止むの
許されることなら 代わってあげたいと
辛さこらえる 乙女坂
険しき道 されど我が道 愛の道
押させて下さい 車椅子

見上げれば 涙が一つ また一つ
明日に希望の 夫婦坂
険しき道 されど我が道 愛の道
押させて下さい いつまでも
 

八代英太は「車椅子の司会者」として「お昼のワイドショウ」に出演後 この歌を引っ提げて1977年参議院選挙全国区から無所属で立候補84万票を獲得して当選(本名 前島英三郎)
田英夫、横路孝弘らと「平和と民主運動」の呼びかけ人となった
1983年全国区が比例区に代わり 自ら「福祉党」を結成 名簿第一位で当選
1984年自由民主党に移籍 1996年衆議院初当選 
以降参議院を3期18年 衆議院を3期10年 元郵政大臣

現在 
帝京平成大学、山の美容芸術短期大学などの教授を始め 障碍者各団体の顧問、代表、理事を務めて 福祉政策のエキスパートとして活躍中


   


白鷺だより(175)「世界に一つだけの花」

2016-12-16 08:17:44 | うた物語
       「世界に一つだけの花」

最近の覚せい剤がらみの事件を通して「世界に一つだけの花」を考える



平成11年8月槇原敬之は覚せい剤取締り法違反(所持)で南青山の自宅で一緒に棲んでいた通称「金ちゃん」こと奥村秀一と共に逮捕された

今回の成宮寛貴の例でも分かるように芸能人にとって覚せい剤所持よりも「同性愛者」の烙印を押されることは致命的であった 
「東京スポーツ」には「槇原敬之と一緒に逮捕された同性恋人・噂の梶山金太郎・二枚目俳優とも親密」の文字が躍る
「多くの方達に取り返しのつかないご迷惑をかけてしまい お詫びする気持ちをどう表現していいか判りません 潔く罪を認め いかなる処分も受けなければならないと思っております」とファンに謝罪したが 翌月MDMAの所持が発覚再逮捕 結局翌年の判決でも懲役1年6月 執行猶予3年の有罪判決を受け 「寛大な判決が下りました今も 法を犯すことの重大さを痛感いたしております 今後はこの様な事を犯さないことを堅くお約束いたします」とコメント
 
槇原はこの裁判で
* 薬物は同性愛関係にあった金太郎こと奥村秀一から教わった
* 女性の交際や性交渉の経験がない
* 曲作りの際に奥村秀一からアドバイスを受けたり 作詞の一部を担当させていた
* 曲自体も自身の男性経験を元に創作していた
などと証言した
(なおこの時の検事に「私もあなたのCDを幾つかもっています 聞くと元気が出ますね」と言われビックリする)

この有罪判決によって音楽活動は無期限の活動停止に追い込まれ 槇原敬之は社会的に抹殺されたと誰もが思った

しかし翌年 以前所属していたワーナーミュージック・ジャパンに復帰 細々とアルバム作りを開始 彼(または彼ら)が偉かったのはこの時ASKAのように覚せい剤に戻らなかったことである 逆にこれを自分を見つめなおすチャンスだと思い仏教と出会った そしてその作風も今までの私小説的な作品(それも同性愛)とは違い人生そのものをテーマとする作品を目指すようになった その中の一曲が「世界に一つだけの花」だった

NO1にならなくていい
もともと特別なONLY ONE

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人ひとり違うのに  一番になりたがる

そうさ僕らは 世界に一つだけの花
一人ひとり違う顔を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
(中略)
小さい花や大きい花
一つとして同じものはないから
NO1にならなくてもいい
もともと特別なONLY ONE


このアルバムの中の一曲しかすぎなかったこの曲は槇原の「みそぎ」にふさわしいと考え ジャニー喜多川の鶴の一声でシングル化 
「KABAちゃん」の振付も加わってたちまちダブルミリオン(200万枚)を超えた

再犯率64・8%と言われる覚せい剤の犯罪を二人して乗り越え(? これが良かったのかな一人よりも二人・・・) 現在も二人は同棲中 金太郎は槇原の個人会社ワーズアンドミュージック社長奥村秀一として二人三脚で活躍している

そしてSMAPの解散が噂される中 この曲も再び脚光を浴びることになった


実は吉村は明日(12・17)から20日まで寒い大阪を脱出して暖を求めて沖縄に行ってきます おりからオスプレイの墜落事故があり風雲急を告げる沖縄です
ブログはそれまでお休みします