天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

玄宗と楊貴妃のロマンスはかっての義父と息子嫁の不倫愛、でも古代中国では「人の道に反する非道」ではない

2010-06-05 17:19:10 | 日記
今日の日記は、『シルクロード・絲綢之路 第一巻 長安から河西回廊へ』(陳舜臣・NHK取材班著1980年日本放送出版協会刊)で書かれている楊貴妃のことです。
この著書の冒頭「花におう長安」で陳舜臣さんが楊貴妃のことを詳しく書かれています。以下に、その一部を抜粋し掲載します。
『楊貴妃は開元七年(719年)、四川で生まれたという。父が早く死んだので、叔父の楊玄琰の養女となった。彼女の幼名は玉環といった。天成の美貌はかくれもなく、16歳の時、寿王李瑁の後宮に迎えられた。李瑁は玄宗の第18子である。・・李瑁の母は、玄宗が熱愛した武恵妃であったから、彼も数多い息子のなかで、父の愛をより多く受けたほうだったに違いない。・・その寿王の母の武恵妃が死去した。玄宗の悲歎は、見るのも哀れなほどであった。・・傷心の玄宗が、久しぶりに燃えるような目で見た女がいた。悪いことに、それは息子の寿王の妃の楊玉環だったのだ。玄宗は側近の宦官高力士と相談して、玉環を後宮に入れることにした。・・楊玉環を道観(道教寺院)に入れ、女冠(女道士)にしてから、後宮に連れ込んだのである。・・彼女は女道士の姿のまま、驪山の温泉宮ー華清宮に召された。そして温泉に入るように命じられた。これをー浴を賜う。と称した。その夜、天子の枕席に侍る女性に、そのような命令が出たのである。白居易は「長恨歌」に、この時の彼女の様子を、次のように詩っている。
春寒くして浴を賜う 華清の池
温泉水滑かにして 凝脂を洗う
侍児扶け起せど 嬌として力無し
始めて是れ新たに 恩沢を承くるの時
腰元に支えられて温泉から出たが、それでも力無く、ぐったりとしていたという。けれども、楊貴妃はけっして、楚々たる風情の女ではない。唐の理想の女性像にふさわしく、グラマーだったのである。力無くとは、緊張感のせいであった。かっての夫の父親ーそして一天万乗の天子の寝室に向うのだ。さすがの彼女も、足がもつれて、扶けなしには歩けなかったのであろう。』
このように、玄宗皇帝と楊貴妃とのロマンスは、かっては義父と息子の嫁との不倫の愛であったのです。しかし、古代中国では、このよう行為は「人の道に反する非道」ではけっしてなかったのです。
司馬遷著『史記・匈奴伝』には、遊牧民の風習を紹介したくだりに、「父が死ねば、子は自分の生母以外の父の妻妾を自分のものとする」とあります。中国辺境の地で暮らす遊牧民は、厳しい大自然の中で生きています。財産も生命も、すべてのことを共有し、援け合っていかなければ生きていけません。だから、いわば運命共同体という過酷な移動生活のなかで、彼らは父の妾たちを引き取り、その生命を守ったのです。
この遊牧民の風習が、以後の中国王朝の隋や唐に強く影響していたと、私は思っています。だから、隋の煬帝と父の愛人・宣華夫人の悲劇や唐の女帝・則天武后の誕生が、中国歴史に必然的に起きたのです。
たまたま楊貴妃を守ったのが、逆の立場であった夫の義父・玄宗皇帝だっただけであり、同じ後宮の一員には違いないのです。そして、後宮ゴシップの結末は、すべて同じような悲劇になっています。
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