天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

札幌追っかけストリップ劇場踊り子嬢2ショット写真撮影からちょうど今年で6年目ブログ開設グーグルに感謝

2015-05-10 13:47:55 | 日記
今日の続編日記は、ちょうど6年前の2009年5月10日(日曜日)滞在していた札幌の某ストリップ劇場で映して貰ったた二人の踊り子さんとの2ショット写真のことです。添付した写真は、その何も変わらないように見える先輩の踊り子さん(上側・数日後引退発表)と、今も現役を続けている後輩の踊り子さん(下側)の同日撮影のとても印象的な2枚の写真です。
6年前の私(55歳)は、ストリップ観劇にとても夢中になっており、札幌にある二人の踊り子さん所属劇場(今は休館中)まで追っかけ(今年と曜日排配列が同じで、楽日が10日の為、土・日の連休を利用)応援までしていました。その前のGW休暇でも札幌に出かかけており、休暇明け後数日経ってから再び札幌訪問して応援をしていました。
でも6年経った今年は、同じ曜日配列で別宅が札幌に有る好条件でも、6年前と同じように私は札幌来訪をしていません。それは、この札幌にある劇場が休館になっているのと、2ショット写真を撮った先輩踊り子さんが引退し、後輩踊り子さんの悪行親衛隊らから理不尽な劇場排斥行為を受けたからです。その3つの出来事はその年に全く同時に起きて、私は大きな試練(ストリップ観劇中止)を受けたのでした。皮肉なことに、6年経っても後輩の踊り子さんは、本日が楽日で同じように都内某劇場(注:そこに所属しており悪行親衛隊も巣食っている)に出演しているはずです。
この6年間の流れた歳月は、私には”あっと言う間”でした。この日記ブログで、その理不尽な悪行に関して、強い憤りを告白(愚痴めいた発言も多々有ったが)していたから、私自身の精神的なストレスが溜まらず、比較的に平穏な日々を過ごせたと思っています。だから、ブログ開設(注:親衛隊の密告により2回ほどブログを止めて、3回目してようやく軌道に乗った)を手助けしてくれ今も運用してくれている【グーグル】に、私はとても感謝しています。
最近は、当初の目的から離れていろいろな分野の話題になり、私の忌憚のない肉声をブログ日記で吐露しています。でも、私は”初心忘れず”の精神に立ち返って、これからも応援していた踊り子さんの話題を紹介していく所存です。
あと3年ほどすれば、その話題が実地の劇場鑑賞になるのを今から楽しみに待ちながら・・・。
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『昭和天皇実録第二』1919年3月京城高宗国葬に白羽二重二匹真榊一対供前は李氏を日本皇族と同処遇顕れ

2015-05-10 08:28:34 | 日記
今日の日記は、今本宅で読んでいる宮内庁著『昭和天皇実録第二・自大正三年至大正九年』(東京書籍2015年3月刊)に書かれている、日韓併合(1910年)以後の朝鮮王朝と当時皇太子だった昭和天皇との拝謁交流記録のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。以下に、その実録日記から私が抜粋した交流記録(括弧内年齢は昭和天皇数え年齢)を転載します。
・1916年(15歳)11月3日・立太子の礼で、皇族・李堈が賢所大前の儀に出席
・1916年(15歳)11月4日・立太子祝賀で、朝鮮王公族を代表して李堈公参内
・1917年(16歳)3月24日・去る22日李公薨去に付き、王世子李垠に喪中御尋として菓子御贈進
・1917年(16歳) 4月5日・葬儀挙行に付き、真榊一対・鏡餅一台を霊前にお供え
・1917年(16歳)6月14日・朝鮮より上京の李王坧参殿し表謁見所にて御対顔
・1918年(17歳) 2月3日・王世子李垠御機奉伺として参邸につき御対顔
・1919年(18歳)1月22日・李太王高宗李凞が薨去、李王坧並びに王世子李垠・李堈公に弔辞
・1919年(18歳) 3月3日・京城にて李太王高宗の国葬、白羽二重二匹・真榊一対を葬儀お供え
・1919年(18歳)12月25日・王世子李垠ら皇族を午餐にお招きになり御会食
・1920年(19歳)1月22日・李太王一周年祭に付き、玉串を霊前にお供え
・1920年(19歳)4月27日・王世子李垠と方子女王婚儀で、李垠へ五種交魚・御紋附銀製花瓶一対、方子女王へ紅白縮緬を贈進
・1920年(19歳)4月28日・王世子邸に鮮鯛を、朝鮮の李王には五種交魚料を贈進
・1920年(19歳) 5月1日・王世子李垠と同妃方子女王が結婚御礼の参殿し御対顔
・1920年(19歳) 6月6日・王世子李垠と同妃方子女王らと御対顔し朝鮮総督府が撮影した活動写真を一緒に御鑑賞
・1920年(19歳)10月30日・朝鮮総督斎藤実参殿し、朝鮮の近況に関する言上をお聞きになる
以上のように、日本政府は1910年日韓併合以降も、以前の支配者である李氏王朝の後継者を、日本の皇族と同様に処遇していたのです。ましてや、当時まだ成人していない皇太子の御身分だった昭和天皇でさえ、当時の朝鮮王族に厚く礼を尽くしていました。日本は、朝鮮を単に利益を略奪するだけの植民地国家にしたのではなく、五国融和(日本人・台湾人・朝鮮人・満州人・漢人の一体化)を当時は真剣に考えていたのでしょう。だから、私は、この著書『昭和天皇実録』を、全韓国人に是非読んでもらいたいです。
でも、こんな日本政府の戦前の努力を、戦後の大韓民国は全く理解しようとしません。逆に、戦時下の日本政府の行いを、自分たち朝鮮人(注:国籍は日本人になっていたにも関わらず)だけは別物と曲解し、日本人の勤労動員協力(内地では当然のことされていた)を、人権侵害の強制連行と見做して、その企業への損害賠償やユネスコの世界遺産登録妨害までも強行し、その悪行のエスカレート化を全世界に企ています。
日本の歴史上の行為を正しく理解しない隣国の悪漢国家とは、もう国交を断絶すべきです。そして、5月に行われる外務省局長クラスのお互いの会合で、日本政府・外務省はその強い姿勢を示してほしいと期待しています。
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