天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

自伝著『女優浅丘ルリ子咲きつづける』彼女が外地引揚者で幸運に災難逃れ戦後労苦の体験少女と知り親近感を

2014-06-03 23:02:39 | 日記
今日の日記は、今読んでいる浅丘ルリ子著『女優浅丘ルリ子 咲きつづける』(主婦の友社2013年11月刊)で書かれている私の何も知らなかった女優浅丘ルリ子の姿のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、昭和30年に映画デビューした女優浅丘ルリ子さんのことを、年少時の昭和30年代後半から知っていますが、実際の彼女の素顔をあまりよく知らなかったです。今回この自伝書を読んで、私の知らなかった女優浅丘ルリ子の”素顔”を垣間見て、その人柄にとても親近感を持ちました。以下に、その著書から私が共感した記述の一部を引用・掲載します。
『太平洋戦争開戦(1941年)の1年前、私は四人姉妹の次女として満州の満鉄病院で生まれました。・・私が3歳のとき、父(大蔵省の役人)がタイのバンコクに転勤になりました。・・やがてバンコクで終戦を迎え、引き揚げ船で帰国する日がやってきました。私たちが予定の船に乗ると、「大使館関係の重要人物が乗りますので、浅井さん(本名)のご家族は、すみませんが降りてください」と言われ、船をおろされました。けれど、何が起きるかわかりません。私たちが乗るはずだったその船は、途中で沈没してしまったのです。日本に着いてからは、戦後の苦労も味わいました。・・でも、なぜか子どもたちは生き生きとしていました。物はなくとも、人々が思いやりあって、助けあう、心の豊かさがあった時代だったように思います。もし、タイに行かずにそのまま満州にとどまっていたら、私は中国残留孤児になっていたかもしれません。あの船に乗っていたら、今、この世に私たち一家はいないでしょう。・・おつきあいのあった方を見送ることが増えてきました。でも、私、実は、死について考えたことがありません。・・だから、裕次郎さんも、渥美さんも、ひばりさんも、死んでいなくなったとは思えないのです。私の中では、失われていないからでしょう。もう会えないけれど、私が覚えている限り、その人たちは生きていると思います。』
私は、浅丘ルリ子さんは、何も苦労の環境ですくすくと育ったとばかりと勝手に思っていました。だから、彼女が外地からの引き揚げ者であり、幸運にも沈没事故の災難に巡り会わなかったが、戦後の苦労も体験している少女と知り、とても驚いています。そして、その境遇の中でも、当時の子供たちは”生き生きとしていました”と語った13歳年上の浅丘ルリ子さんの肉声に、私自身の体験から今強く共感しています。
さらに、彼女の死生観(覚えている限り、その人たちは生きている)にも、私は深い共感を抱いています。やはり、彼女のこの生い立ちから、映画『男はつらいよ』のマドンナ・リリーが生き生きと姿で登場したのだ、今強く得心しています。彼女が自著で紹介して、自らも同意している『男はつらいよ』奄美群島の最後のロケ地に立つ記念碑の刻文「この加計呂麻島で寅さんとリリーさんは愛を語らいながら、のんびり暮らしているのだろう」にも、その死生観が強く表れていると私は思っています。
さらに、私には、女優という生業をして彼女には、自分の肉体が滅んでも、映画に残った自分の姿は永遠・不滅だと納得しているような気がします。だから、これからも80歳になった自分(現在は74歳)が演じられる役があると思っている女優・浅丘ルリ子さんを私は強く応援したいです。
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