インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

目に見えぬ存在との戦いにおける策略 ~捕食者~

2012-05-29 06:09:46 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  昨日の『無限の本質』の続きであるが、なぜ人間がグダグダ考えたり、内省したり苦しんでいるかというと、目には見えない存在であるが(非有機的存在)、宇宙にはそれを餌として食べている化け物がいるからだという。

 それを捕食者、「飛ぶ者」(暗がりであちこち飛び回る)という。これは何も固定観念が植え付けられていなくて、純粋に物事を見ることができた幼児期に「見る」ことができたが、「あんまり恐ろしいもんだからそれらについて考えるのをやめてしまう」という。

 なるほど、吾輩も、小さい頃は暗がりが死ぬほど恐ろしくて、そこから立ち去ろうといつも走っていたものだ。

 古代メキシコの呪術師によると、幼児期というのは、エネルギーのまゆの上に光り輝くコーティング(オブラード?)がまるごと展開されていたわけであるが、幼児は成長するにつれていろいろ教育され、固定観念を植え付けられる。

 (コーティング=「意識の光る上着」がじりじり減っていく)

 幼児は子供になり、次第に「あれこれ考える心」が発生する。この「心」というのは、宇宙において確かに存在する、異なる種類の意識(捕食者)のエサであるといい、その捕食者の食物を生み出させるために、我々人間には、捕食者から心が与えられているというのだ。

 人間とは、捕食者の囚人である。捕食者は、人間の内省につけ込み、「意識の炎を作り出し、捕食者特有のやり方で、冷酷に食い尽くしていく」という。

 つまり、生き生きとした不思議な存在である人間は、ただの肉片に過ぎなくなり、さらに肉片である我々は、捕食者からナンセンスな問題を与えられ(思考し)、焼肉にされているのだ!(なんてことだ!)

 この状況から脱出するためには、我々は修練によって、捕食者の口に合わないような、「まずい肉片」になるしかない。

 その修練とは、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かう能力」であり、

 捕食者によって引き起こされた内的対話(グダグダ考えること)を止め、内的沈黙で責め立てる。

 そもそも「自分の心」とは「捕食者の心」である。


 『無限の本質』p280より

 大昔の呪術師たちの並外れた策略は、「飛ぶ者の心」に修練の重荷を背負わせることだった。

 彼らは発見した―― 飛ぶ者の心を「内的沈黙」で責め立ててやると、「外来の装置」が逃げ去って、それにより、この策略にかかわっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信が得られることをな。