田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

コントラバスの重低音に酔う

2020-02-19 16:10:35 | ステージ & エンターテイメント

 まさにお腹の底にズシンと響いてくる重低音だった。コントラバスがメインとなるコンサートは初めての体験だったが、コントラバスの魅力を堪能できた素晴らしい一夜だった。

       

 2月17日(月)夜、メディカルシステムネットワーク提供の「ふれあいコンサート」ウィステリアホールで開催され、参加する機会を得た。

 この日のコンサートは、コントラバスの吉田聖也ピアノの新堀聡子のデュオのコンサートだったが、メインはあくまでコントラバスの吉田聖也であった。

 コンサートはいきなりピアソラのタンゴの曲「キーチョ」で始まった。この曲がコントラバスでも最低音に近い音階から入ったのだが、その一音一音がまさに私のお腹にズシンと響いてくるような音だった。この曲を聴いただけで私はコントラバスの魅力にはまってしまった。

          

 吉田氏もお話されていたが、コントラバスはオーケストラや、アンサンブルなどでは楽曲全体を下支えする存在で、他のコンサートでは低音過ぎてほとんど私の耳に届いていない場合が多い。それがこの日のコンサートでは主役をはってその存在を十二分に主張したのだ。「キーチョ」の後には次のような曲が演奏された。

 ◇ラフマニノフ/ヴォカリーズ

 ◇ギュットラー/グリーンスリーブスの主題による変奏曲

 ◇デザンクロ/アリアとロンド

 ◇いずみたく/見上げてごらん夜の星を

 ◇モンティ/チャルダッシュ

〔アンコール〕サン・サーンス/「動物の謝肉祭」より象

わずか1時間のコンサートの中にクラシックはもちろんのこと、最初の曲タンゴや、民謡(イングランド)、ジャズ、歌謡曲etc.と選曲も多彩で、コントラバスの魅力を十分に味わわせてくれる内容だった。

 特にチャルダッシュは超絶技巧を要する曲で、ヴァイオリンの奏者が弾く曲として有名であるが、吉田氏はあの大きなコントラバスで見事に演奏しきった。それもそのはず、吉田氏は札幌交響楽団の一員であるということだから、腕前も超一流の奏者だったのである。

       

 ウィステリアホールは新しくできたホールだが、キャパ180名の小さなホールであるが、満員の聴衆が私同様に感動したらしく大きな拍手に包まれたコンサートだった。

 吉田氏はまだまだ若く(30代前半?)いろいろと新しい試みをされているようである。例えばコントラバス奏者4人のアンサンブルや、コントラバスとヴァイオリンのデュオなどのユニットを組んでの活動もされているようだ。

 4月に札幌交響楽団のコンサートに行く予定であるが、吉田氏を知ったことで楽しみが一つ増えた思いである。

 


北海道のオリンピアン大集合!

2020-02-18 13:59:30 | 講演・講義・フォーラム等

 北海道出身のオリンピック出場経験のあるオリンピアン(北海道オール・オリンピアンズ)が集合し、札幌冬季オリンピック・パラリンピック2030の開催をアピールした。はてしてオリンピックは近づいたのか?

        

 2月15日(土)夕刻、札幌市教育文化会館において「指定都市市長会シンポジウム in 札幌」が開催され参加した。政令都市の市長会とオリンピック・パラリンピックがどう関連があるのか?一見分かりづらいところがある。ただ、指定都市市長会の会長の林文子横浜市長の言によると、札幌市のオリンピック・パラリンピックの開催立候補を指定都市市長会として後押ししようという趣旨と受け止めた。

 シンポジウムのプログラムは次のとおりだった。

 ◆「北海道オール・オリンピアンズトーク」

   ◇阿部 雅司 氏(ノルディック複合 冬季五輪3度出場)

       

   ◇鈴木  靖 氏(スピードスケート サラエボオリンピック)

       

   ◇成田郁久美 氏(バレーボール アトランタ、アテネオリンピック)

       

   ◇藤田 征樹 氏(パラ自転車 夏季パラ五輪3度出場)

       

   ◇本橋 麻里 氏(カーリング 冬季五輪3度出場)

       

 ◆橋本聖子オリンピック担当大臣メッセージ

       

 ◆クロストーク

   ◇橋本 聖子 氏(スピードスケート・自転車 夏季・冬季五輪計7度出場)

   ◇小塚 崇彦 氏(フィギアスケート バンクーバーオリンピック)

   ◇林  文子 氏(指定都市市長会会長 横浜市長)

   ◇秋元 克広 氏(札幌市長)

       

という三部構成だった。

 オリンピアンズトークの中で、「北海道オール・オリンピアンズ」についての説明があった。当初はオリンピック体験者で作られた組織だったが、その後パラリンピック、スペシャルオリンピックス(知的障碍者)、デフリンピック(聴覚障碍者)の出場体験者も加え、現在451名が会員となっているとのことだった。

 その後、登壇した5人のオリンピアンは自分がオリンピック、パラリンピックの出場体験を語ったが、残念ながら心に残るような発言は聞かれなかった。そう感じたのは、私が聞き下手だからだろうか?

 続いての橋本オリンピック担当大臣のメッセージは聴衆の心をとらえた見事なものだった。持ち時間の約40分間、原稿なしで滔々と語る姿が印象的だった。おそらく多くの場で発表・発言する機会があるからかと思われたが、自分はオリンピックの申し子のようにして生まれ、親の期待も背負いながら努力した結果、スピードスケート、自転車の両種目で7度の出場を果たしてのだから説得力があった。また選手を引退後、3度のオリンピック選手団長を務めたということだが、その中で「ナショナルトレーニングセンター」の設立に関与したという。そのトレーニングセンターは異種競技の選手たちの交流が盛んとなり、そのことが日本選手の競技力向上につながっていることを強調された。

 オリンピックは〔する〕〔見る〕〔支える〕の三者が相互に関わって成り立っているとし、橋本氏は〔支える〕立場から、来る東京オリンピック・パラリンピックにおいては成熟したオリンピック都市の姿を提示したいと語った。

 橋本氏は直接、札幌冬季オリンピックについて言及はしなかったが、北海道出身者として、冬季オリンピック出場体験者として、また北海道オールオリンピアンズの創設者として言外に強く札幌冬季オリンピック・パラリンピックの実現を後押しする気持ちを滲ませていたと受け止めた。

 クロストークで印象的だったのは、林文子横浜市長の発言だった。2030年というは林氏は83歳の高齢になると懸念しながらも、1972年の札幌冬季オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」が強く印象に残っている発言され、「あの高揚した気持ちを再度日本の中、北海道の中に再現してほしい」と話された。

 札幌市は、先日のスペシャルオリンピックスのトークショー、2月16日のさっぽろスノースポーツフェスタ、そして今回のシンポジウムと札幌冬季オリンピック・パラリンピック2030の実現に向けて雰囲気づくりに懸命のようである。というのも、現在のところ道民あるいは札幌市民の支持率が50パーセント前後に留まっているとメディアが伝えているからだ。最近のオリンピック開催都市の決定には住民の支持率が大きく左右しているとも聞く。関係者の努力によってぜひとも支持率の向上を目指してほしい。

 私は1972年の札幌冬季オリンピックの際は道東に住んでいて、その熱気を直接感ずることはできなかった。2030年というと私自身かなり高齢となっているが、ぜひともその熱気を直接自分の肌で感じたいと思っている。

 


Society 5.0 北海道が目ざす未来

2020-02-17 16:31:27 | 講演・講義・フォーラム等

 Society 5.0の社会が到来した今、これまでの延長線上で成長を考えるのではなく、これまでの思想、研究、技術などあらゆるものを融合し、それを再構成することの重要性が指摘されている。そのことの実験・実証・実装の場を、北大と日立製作所がタッグを組んで岩見沢市において取り組んでいることをうかがった。

   

 昨日は西に、今日は東にと、札幌市内で開催される講演やフォーラムを追いかけて雑学を積み重ねている私である。何の系統性もなく、何の脈絡もなく…、ただ聞きおき、聞きかじるだけの行為を繰り返している。しかし、今の私はそれに満足している。外へ出て、聴いてみようという意欲があるだけ心身が健康である(?)ということだから…。

 2月14日(金)午後、札幌市共済ホールにて北海道大学/日立北大ラボ/北海道大学COIが主催する2020北海道大学 × 日立北大ラボ フォーラム Society 5.0 北海道の地方創生と未来」というフォーラムに参加した。

   

 まず「Society 5.0」ということであるが、近年この言葉を耳にする機会が多くなった。この言葉は日本が提唱している未来社会をイメージするコンセプトである。時代は、狩猟社会(Society 1.0)農耕社会(Society 2.0)工業社会(Society 3.0)情報社会(Society 4.0)と人類は進歩を続けてきたが、さらなる新しい道として第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現するという意味でSociety 5.0と名付けたということである。言葉を変えると、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、新たな未来社会の実現を提唱しているということだ。

 フォーラムではテーマに関係する多くの方が講演され、パネルディスカッションで議論を展開された。その全てを再現する力は私にはない。フォーラムのラインナップを紹介しながら、私なりに感じたことを記すことにしたいと思う。フォーラムのラインナップは…、

 ◇基調講演 「岩見沢市における地方創生」

   「『健康経営都市』を目指す産学官連携の取組み」 

岩見沢市長 松野  哲 氏

 ◇講演① 「北海道の問題提起」

   「地域をつなぐネットワーク」

      NTT東日本 北海道事業部ビジネスイノベーション部長 澤出 剛治 氏

   「エネルギーの地域共生にむけた取り組み」

      北海道電力 執行役員 総合研究所長 皆川 和志 氏

 ◇講演② 「課題解決に向けた取組み」

   「母子の健康、腸内の環境」

      北海道大学 医学研究院 教授 玉腰 暁子 氏

      北海道大学 先端生命科学研究院 教授 綾部 時芳 氏

   「スマート農業」

      北海道大学 農学研究院 教授 野口  伸 氏

   「健康データの活用、分散型エネルギー構築に向けて」

      日立製作所 日立北大ラボ ラボ長代行 竹本 亨史 氏

   

 ◇パネルディスカッション 「北海道の未来」

  〈モデレーター〉

     日立製作所 基礎研究センター シニアプロジェクトマネージャー 吉野 正則 氏

  〈パネリスト〉

   ・北海道立総合研究機構 理事(北大名誉教授) 丸谷 知己 氏

   ・北海道大学 公共政策大学院 教授 中山 元太郎 氏

   ・NTTドコモ 北海道支社 法人営業部 部長 尾作 勝弥 氏

   ・森永乳業 研究本部 研究栄養科学研究所 所長 武田 安弘 氏

   ・日立製作所 基礎研究センター長 日立北大ラボ長 西村 信治 氏

とまあ、多彩なラインナップで、オールスター総出演といった趣だった。これらを聴く側としては大変な思いで、各氏の言葉に耳を傾けたが門外漢の私にはそれらについて吸収できるだけの素養を持ち合わせていない。そのため全体を拝聴した印象のみを記すことにしたい。

 まず、この研究は北海道大学と日立製作所がコラボした「日立北大ラボ」が中心となって進めている研究・実証・実装プロジェクトであるらしいということだ。講演の中で多くの方が「実装」という言葉を多用していたのが私には耳新しかった。「実装」とは、何らかの機能や仕様を実現するための装備、またはその方法であり、コンピューター分野では、ソフトウェアハードウェアに、機能や装置をセットすることやその作業を意味することだそうである。平たく言えば、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させ、実社会で応用するということではなかろうか?

 その「日立北大ラボ」は、岩見沢市を実証・実装の場として活用するということのようだ。具体的には、一つは健康分野に着目し、「母子の健康」を図ることによって人間の健康体を創り出す(健康を維持する)に着手したということだ。

 さらには、野口教授が進める無人トラクターの実証・実装の場としても岩見沢市と提携して研究を進めているという。

 そして、エネルギーの問題では、大規模停電(ブラックアウト)の危機を再び招かないために地域マイクログリットの構築の研究も進めているらしい。

 ただ、北海道において「Society 5.0」の社会を目指そうとするとき、少子高齢化、人口減少、広域分散型社会、等々課題が山積しているためにその実現により困難が伴うという。つまり北海道は「課題先進地域」だという発言があった。それは北海道は日本が近い将来当面するであろう課題の数々を先取りしている地域だとする説である。しかし、そうした課題を克服するのが「Society 5.0」の社会であると発言する方もあった。

 そうした課題を一つ一つ乗り越え解決できた時、北海道は「課題解決先進地域」にもなり得るという前向きの発言もあり、岩見沢地域における「日立北大ラボ」の実証・実装プロジェクトが大いに注目されるところである。

 主催者(日立北大ラボ)によると、来年度も同様のフォーラムを開催する予定であると告知された。ぜひ来年度のフォーラムも参加させていただき、その進展具合を知りたいと思っている。


スノーシュー in 滝野丘陵公園 & さっぽろスノースポーツフェスタ

2020-02-16 18:48:03 | スノーシュートレック & スノーハイク

 二兎を追うもの一兎を得ずの典型だった…。どちらもどうも中途半端となってしまい、反省しきりである。スノーフェスタの方はもともとちょっと見のつもりだったが、スノーシューの方は完全なリサーチ不足だった。

 本日(2月16日)、大通公園を会場に「さっぽろスノースポーツフェスタ2020」が開催された。そのフェスタの一つとして「さっぽろ雪まつり」の雪像をつくった残雪を利用して公道(北大通の6~9丁目)に雪を敷いてクロスカントリースキー大会を実施するという企画に興味を抱いた。

   

   ※ スタートを待ち、コース脇に集まった観戦客です。

 午前9時スタートと聞いていたので、スタート時間に合わせて大通公園に赴いた。大会はコースが650mと短いこともあり、ジュニア(小学生)とパラアスリートの部のみの大会だった。

   

   ※ スタートを待つジュニアの選手たちです。  

 午前9時、ジュニアの選手たちがスタートした。10秒毎に時間差で選手が次々とスタートしていった。コースの両側には観戦客が二重三重になって声援が送っていた。ふだんの大会では関係者くらいしかいない大会が多いと思われるが、大観衆に見守られてという慣れない環境のためかかなり緊張した様子の選手が多かったようだ。

   

   ※ コースは写真のように公道上に作られていました。

   

   ※ 勢いよく飛び出したスタート直後の選手です。

 ゴールの方にも回って、選手のゴールの様子も見た。わずか650mという短い距離ではあったが、ゴールした選手たちは一様にホッとした表情を見せていたのが印象的だった。

   

   ※ コースを走り切り、ゴールした選手と、ゴール直前ラストスパートする選手です。

 私はスノーシューの方が気になり早々と会場を後にしたが、コースは北側が公道、折り返して南側のコースは大通公園内というコース設営だったが、もしこれからも毎年開催するのであれば、公道を使わずとも公園内だけでもコース設営が可能ではないかと思ったのだが、何か不都合があるのかな?(各丁目を繋ぐところは道路閉鎖をしなければならないが)

    

    ※ 東口のスノーシューコースは黄色い線のクマゲラコースだけでした。

 大通公園から約30分かけて「国営滝野すずらん丘陵公園」の東口駐車場に着いた。というのは、「北海道スノーシューハイキング」というガイド本で全長15キロのコース(クロカンのコース)があるとあったので、そのコースを歩こうと思っていた。しかし、インフォメーションに行ったところ「スノーシューのコースは1コースしかない」と告げられた。そのコースは以前に歩いたことのあるコースであまり魅力がなかった。すると案内の方から東口とは反対側になる「滝野の森口」の方が魅力的だと案内された。そのアドバイスに従い「滝野の森口」へ回った。

        

   ※ 私がスノーシューを楽しんだところは「滝野の森ゾーン」の外側でした。

 ところが「滝野の森口」へ行くと、子どもたちを対象にした「ノモリ調査団」というイベントが開催されていて、スノーシューで歩くコースが制限された。なんとまあ、ついていない。

   

    ※ 駐車場から写真の「森の交流館」に導かれます。

 コースは数日来の暖気で溶けた雪が固まって、スノーシューなど必要のないほど固雪のコースになっていた。これではつまらない。私はコースを外れて誰もが歩いていないところに踏み出した。沢伝いにどんどん下りて行った。ササが一面を覆い、その上に雪が乗っているので、踏み出すとズボッと沈みながらの雪中行軍となった。途中、クロスカントリースキーのコースを何度も横断しながら沢を下って行った。できれば何か動物に出合いたいと思いながら歩き続けたが、なぁ~んにも遭遇することはなかった。写真映えのするところもなく退屈なスノーシューイングだった。

   

   ※ 誰も踏み込んでいない森の中を歩きました。

   

   ※ できるだけささやぶがないところを選びながら前進しました。

 すると遠くに柵が見えてきた。公園をぐるりと取り囲む柵だった。それ以上の前進はできなかったので、そこから引き返すことにした。短い時間だったが、道なき道をどのように進むか、その時々の判断が要求されるスノーシューの醍醐味を味わうことができたひと時だった。ただ、スノーシューを堪能できたか?と問われると「う~ん。消化不良だったかな?」という思いが残った一日だった…。

   

   ※ 公園を取り巻く金網の柵が見えて、ここより前へは進めませんでした。

   

   ※ コース途中にあった「森見の塔」です。

   

   ※ 森見の塔の脇にはこうした机と椅子が配され、休憩ポイントになっていました。


義足ランナーが健常者を抜く日

2020-02-15 14:10:09 | 大学公開講座

 義足ランナーがオリンピックアスリートより速く走るって??そんな野望を抱いてスポーツ(競技用)義足の研究・製作に励むエンジニアのお話を聴いた。それとともに、ロボット義足の開発のお話でとても興味深いお話を聴いた。

        

2月13日(木)夕刻、北海道科学大学において公開講座「義足ランナーが健常者を抜く日」~スポーツ義足製作の舞台裏~」と題して(株)Xiborg(サイボーグ)社長である遠藤謙氏の講演を拝聴した。遠藤氏は北海道科学大学保健医療学部義肢装具学科の客員教授を務められていることから今回の公開講座が実現したようだ。道科学大に義肢装具科という学科があることを初めて知った。

     

     ※ 講演をされる遠藤謙氏です。

 遠藤氏はもともとロボットを研究するエンジニアであり、義肢とは関りはなかった。しかし遠藤氏が留学したMITで出会ったHogh Herr教授の「世の中に身体障害などない。ないのは技術がないだけだ」という言葉に刺激を受け、ロボット義足の研究の世界に足を踏み入れたということだ。ロボット義足とは、脚がまったくないような人にロボット技術を駆使して脚の動きを再現させて歩かせるようにする義足である。

 そのロボット義足を遠藤氏はあの乙武洋匡氏に装着するプロジェクト「Ototake Projekt」に取り組んだという。乙武氏とは「五体不満足」という本を著し、一躍時の人になった方で、四肢がまったくない人である。その乙武氏に脚を作って歩かせるという相当に困難なプロジェクトである。そのプロジェクトの進展過程を動画でもって見せていただいた。2年間のプロジェクトで試行錯誤を重ねる中で、乙武氏は20mを独力で歩くことを実現させた。まったく両脚のない乙武氏がかなり不安定な歩き方ながらも一人で歩ききった姿を、見ることができたのは感動ものだった。

    

  ※ Ototake Projectはまず乙武氏が義足に慣れるため、脚の短いものから始めたという。

    

    ※ 完成したOtotake Modelを横に置いた乙武氏です。

    

 ※ 完成したロボット義肢を装着した乙武氏と開発に携わったメンバーです。遠藤氏は右端。

 ロボット義足の研究と共に、遠藤氏はスポーツ義足の研究にも取り組んでいた。スポーツ義足とはパラリンピックが脚光を浴びていることから、お分かりの方が多いと思われるが、義足が金属製のバネで作られているものである。パラリンピックの選手たちは脚がないだけで、他はアスリートそのものの能力を有する選手たちである。その短距離の選手たちは用具の進歩もあって今や100mで10秒台に突入する選手も生まれてきているという。

動画を見せていただいたが、彼らの走る姿はアスリートそのものといった感じだった。遠藤氏はそうした選手たちとタッグを組んで、「義足ランナーが健常者を抜く日」を目指して研究を進めているということだった。ばねの形状、材質、義足と残存部位とのアジャストの問題等々、改良の余地はまだまだあるとのことだった。

    

      ※ スポーツ義足の数々です。種目によって、個人によってすべて違います。

            

      ※ パラ陸上の有力選手の前川楓選手ですが、堂々たるアスリート体型です。

 遠藤氏はまた、競技用ばかりでなく、脚を失った人が誰でも走ることができる安価なスポーツ義足の開発も目指しているという。

 パラリンピックの選手たちの躍動の陰に遠藤氏たちのような研究者の存在があることを改めて教えられた講演だった。


都心エネルギーアクションプラン

2020-02-14 20:16:24 | 講演・講義・フォーラム等

 札幌市は、都心部を低炭素で持続可能なまちづくりへ進めるためのアクションプランを昨年12月に策定したという。その策定に関わった関係者がそれぞれの立場から提言していただいたのだが…。

    

 2月12日(水)午後、道新ホールにおいて「都心エネルギーアクションプラン “キックオフ”フォーラム」なるものが開催され参加した。なお、副題は「~2030低炭素で持続可能な札幌都心を目指して~」とあった。

 開催のねらいは2020年から2030年の北海道新幹線札幌開通までの間に札幌都心の各所で再開発が盛んとなる計画があるが、それらの地域のエネルギーを低炭素で持続可能な地域とするために札幌市が提言するまちづくりに協力を要請するフォーラムと私は解した。したがって市民参加をうたっていたが、札幌市にとってもっとも参加を願っていたのはデベローッバーであり、ビル開発の関係者のようだった。それは会場の前方のかなりの席が関係者席と指定されていたことからもうかがえた。

 フォーラムは次のような構成になっていた。

 【基調講演】

 ◇「都心エネルギーアクションプランの目指すもの」

          千葉大学大学院工学研究院地球環境科学専攻  教授 村木 美貴 氏

 ◇「札幌市の急速な人口成熟と都市戦略」

          日本総合研究所調査部主席研究員、地域エコノミスト 藻谷 浩介 氏

 【パネルディスカッション】

 ◇コーディネーター 村木 美貴 氏(千葉大学大学院工学研究院地球環境科学専攻教授)

 ◇パネリスト  

  ・藻谷 浩介 氏(日本総合研究所調査部主席研究員、地域エコノミスト)

  ・久野 譜也 氏(筑波大学大学院人間総合科学研究科 教授、健康政策)

  ・井上 俊幸 氏(三菱地所株式会社開発戦略室長兼開発推進部長)

  ・秋元 克広 氏(札幌市長)

 基調講演ははっきり言って、都市づくりやビル開発の専門家向け的内容で、私のように素人には理解することがなかなか難しい内容と映った。特に、村木千葉大教授はアクションプラン策定を主導した方のようなのだが、早口の上、専門的なワードが頻出して私には難しかった。言われていた趣旨はこれからの都市におけるまちづくりにあたっては、エネルギーの低炭素化を進めるとともに、快適で健康を志向しながら、災害に強い強靭化を図ることが必要と提言されたと理解した。

 興味深かったのは、次に講演された藻谷氏のお話だった。藻谷氏は人口変動の側面から都市づくりを論じた。藻谷氏は札幌市の人口(人口構成)を2014年1月と2019年1月の住民票を基準に比較して見せた。すると、0歳~64歳までの人口が減少しているのに対して、65歳以上人口が激増している点を指摘した。具体的にはこの5年間で0歳~64歳までは59,000人減少したのに対して、65歳以上人口は127,000人も増えている。こうした傾向は首都圏でも同じであると統計を示しながら指摘した。藻谷氏は今や高齢化率や人口の増減を問題にすることには意味がない。人口が半減することはもはや確定的なことであり、問題はその先をどうするか、論ずるべきだと主張された。その問題解決のヒントとして藻谷氏は、①0~4歳児の減少を食い止めること。②街をコンパクトにし、諸機能の密度を高めることである、と提言された。拝聴していた私としては説得力あるお話だと感じた。

   

 パネルディスカッションに入り、久野氏と井上氏もそれぞれの立場からレクチャーされた。久野氏は健康政策の立場から「意図しなくても、自然に歩いて(歩かされる)しまう都市づくりをすることが、これからの健康都市の方向性である」と提言された。また、三菱地所の井上氏は東京・丸の内地区を再開発し、全国の地方都市の都心づくりのモデルとされているが、丸の内の場合は三菱地所が丸の内地区の大半の地権者であったことから、再開発が三菱地所主導で進めることができたが、地権者が入り乱れている都市においては行政がまちづくりをリードしていくことが重要だと提言された。

        

    

 最後に秋元札幌市長は、策定されたアクションプランの実現のためにリーダーシップを発揮して、理想的なスマートシティの実現を目指していきたい力強く締め括った。

 と、まとめてみたがフォーラムのことをどれだけ正確にまとめることができたかと問われると全く自信がない。ただ、これから札幌駅を中心とした都心が変貌していく過程で、札幌市が理想とするマチへと変貌していく姿を見届ければと思っている。

 


マンドリン四重奏演奏会 in かでるホール

2020-02-13 14:50:58 | ステージ & エンターテイメント

 マンドリンの繊細な音が、そしてマンドリン独特のトレモロの軽やかな音色がかでるホールいっぱいに響きわたった。それにしても、二重奏、三重奏、はたまたそれ以上の多人数編成もあるのになぜ「四重奏演奏会」なのだろうか?

    

 ※ 本演奏会に三つのグループが出演した月寒高校マンドリン部の一つのグループです。

 2月11日(祝・火)午後、北海道立道民活動センターホール(通称:かでるホール)において日本マンドリン連盟北海道支部が主催する「第49回マンドリン四重奏演奏会」が開催されたので駆け付けた。私は2017年に続いて2度目の鑑賞だった。

 参加したグループは計10グループだったが、そのグループ名と編成数を記すと…、

 ◇ マンドリンデュオ Oh Meiji 〈二重奏〉

 ◇ Sound-Hole 〈三重奏〉

 ◇ トロワ クルプス 〈四重奏〉

 ◇ 江別マンドリンアンサンブル「コンパーニョ」 〈小編成〉

    

 ※ 江別では第三中にしかマンドリン部がなく、その後も継続を望む子たちのために結成された

  「江別マンドリンアンサンブル」の方たちです。年齢層が幅広いのが特徴です。

 ◇ 札幌月寒高校マンドリン部「カカオ100%」 〈小編成〉

 ◇ トリオ デル・カーナ 〈三重奏〉

 ◇ 魅惑のマンドリン 〈二重奏〉

 ◇ 札幌マンドリン倶楽部 〈四重奏〉    

 ◇ 札幌月寒高校マンドリン部「WANT-MOON」 〈小編成〉

 ◇ 札幌月寒高校マンドリン部「むじ」 〈小編成〉

 この他に特別演奏として、旭川在住のマンドリン愛好家の長江和歌子さんが第26回TIAA全日本作曲家コンクール室内楽部門の奨励賞を受賞されたということで、その受賞曲「6つのマンドリンのため“Spring”」という曲を六重奏で演奏した。

    

    ※ 特別演奏をされた選抜チームの演奏です。

 いずれの出演者の演奏も日常の練習の成果を発揮され、聴きごたえのある演奏がほとんどだった。そうした演奏を楽しみながら、私の中ではリード文で触れたような疑問がふつふつと沸き上がった。ラインナップを見ても分かるとおり10グループが出演した内、四重奏はわずか2グループで、他はさまざまな編成となっている。それなのになぜ四重奏演奏会なのか?マンドリンにおける四重奏とは、調べてみると第1マンドリン、第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロの編成となっている。う~ん??(今回の演奏会で四重奏のグループは両者ともにマンドリンチェロの代わりにギターを使用していた)

    

 ※ 典型的なマンドリン四重奏です。マンドロンチェロの代わりにギターが入っています。

 私は考えた。本来マンドリンのアンサンブルは四重奏が基本なのだと思われる。だから敢えて「四重奏演奏会」と銘打っているが、参加者の門戸を広げる意味からも四重奏にこだわらない演奏会としているのでは、と…。

 演奏会後にロビーで会った月寒高校マンドリン部の生徒に尋ねたところ、おおよそ私の考えを肯定してくれた。まあ、あまり固く考えずにマンドリンのアンサンブルを楽しむことができていればOKということなのでしょうね。

 演奏会で気になったグループがあった。それはトップバッターの「マンドリンデュオ Oh Meijiのお二人だった。明治大学マンドリン部のOBだということだった。年代的には50代になったか、ならないかくらいの壮年のデュオだった。「帰れソレントへ」、「星に願いを」、「トロイカ」といったマンドリン曲としてスタンダードともいえる曲を軽やかに演奏した。私は明治大学マンドリン部の北海道演奏会を確か3回ほど楽しませてもらっている。わずか二人の演奏だったが、彼らの音色からは明大マンドリン部の演奏会を彷彿とさせてくれた。

    

    ※ 明大マンドリン部OBのデュオ「Oh Meiji」のお二人です。

 私は想像する。お二人とも本州に本社がある企業の札幌支店に転勤になった方ではないだろうか?(昔はよく「札チョン族」などと称されていた)たまたま同時期に転勤となり、市内のどこかでばったり再会した先輩後輩の間柄なのではないか?単身赴任の寂しさを紛らわすために「また一緒にやってみようよ!」と意気投合した末の出演ではなかったろうか?そんなことを想像したくなるような二人の演奏時の表情だった。

 マンドリン四重奏演奏会…、機会があったらまた聴いてみたいと思わせてくれる演奏会だった。

 

 


ふるさと動画視聴会 名寄市・中頓別町

2020-02-12 18:29:40 | 「めだかの学校」関連

 名寄市は道北の基幹都市の一つである。また、中頓別町は名寄市よりさらに北に位置する酪農が中心の町である。しかし、ご多聞に漏れず両市町ともに過疎化の波は容赦なく襲い、両市町ともに過疎化阻止のために奮闘しているようである。

 2月10日(月)午後、シニアの生涯学習グループ「めだかの学校」の「ふるさと動画視聴会」の第5回目は名寄市と中頓別町が取り上げられた。用意された動画(道立図書館所蔵のフィルム)は名寄市が1964年、中頓別町が1965年制作のものだった。それに加えて担当者が現在の両市町の様子を映す動画を用意してくれ、それを会員と共に視聴した。

      

      ※ 名寄市の位置です。文字どおり道北の基幹都市です。

 1964(昭和39)年当時の名寄市は画面から伺うにはとても活気が漲っていた街のように映った。というのも、当時は国鉄の基幹駅として、宗谷本線が通り、さらには名寄本線深名線の始発駅(両線ともに現在は廃線)であったり、自衛隊の駐屯地としても栄えたり、林業の集散地として木材工場もたくさん稼働していたようだが、それらはすべてが縮小したり、廃業したりして、1960年当時48,000人強を数えた人口も、60年後の2020年には27,000人余に減少している。

         

※ 名寄市のカントリーサイン。名寄市の名物の米、もち、ひまわり、星がデザインされています。

 北海道の地方都市はどこも例外ではなく過疎化の波に洗われている。名寄市の現代を写す映像では、広大なひまわり畑を長々と紹介したり、サンピラー現象を売り出すなど、景観を売り物に観光業に力を入れようとしている市の姿勢がうかがえた。面白かったのは、市の過疎化阻止に直結するかどうかは分からないが「なよろ煮込みジンギスカンのうた」とか、「なよろ温度(音頭ではない)-宴会風バージョン」と称する、パロディー風のPR動画が紹介された。

      

      ※ 名寄市が売り出している広大なひまわり畑です。

 ジンギスカンのうたの方は北海道が制作したそうだが、北海道もずいぶん考え方が柔らかくなったものである。また、なよろ温度の方は名寄市長自らがピエロ役を演ずるなど、両者ともに現在名寄市に住んでいる人たちが楽しめる、住んでいることに喜びを感じてもらうことをねらった動画だと解した。

   

   ※ サンピラー現象も名寄市名物の一つです。

 

       

       ※ 名寄市からそれほど離れていないに中頓別町の位置です。

 一方、中頓別町も同年代(1965年)に制作されたものだったが、中頓別の場合は1889(明治31)年に町内の川から砂金が見つかったことから一時ゴールドラッシュに見舞われ川の周辺には8,000人の集落ができるほどだったことが動画で紹介された。

          

   ※ 中頓別町のカントリーサインはその昔ゴールドラッシュを招いた砂金採りの様子です。

 しかし、それも長くは続かず統計でみると1920年代には8,000人を越えていた人口が2020年には1,681人まで減少している。北海道には中頓別町のような小規模自治体が数多く存在しているが、こうした自治体は今後どのようにして生き残っていくのか大きな課題を抱えているということが言えるだろう。

 そのことに対する一つの試みが現代を写す動画の中に見て取れた。それは若者たちへの移住の勧めである。「Nターンズ 私たちはこのマチで暮らし始めた」という動画では5人の若者が中頓別町に移住し、生き生きと活躍している姿を写し出した。また、もう一つの動画「中頓別町PR映像」でも中頓別に移住した3組の若夫婦を紹介し、子育てにやさしい町をPRしていた。二つの動画を視聴して、都会の生活に飽き足らず中頓別のような田舎に移り住む若者がいることに驚き、心強く感じた。(私の場合は年老いていたこともあり逆コースとなったが…)

       

       ※ 中頓別町にNターンした若い酪農家のご夫妻です。

 もう一本の動画が印象的だった。その動画とは「天北線廃線から26年駅跡をめぐる」というものだった。町を縦貫していた天北線が廃止となって26年も経つのに、駅舎が遺されていたり、ホームや鉄路がそのままだったりしたところがあった。また、駅舎が建て替えられて地域のコミュニティセンター的役割を果たしているところもあった。こうした光景を見るにつけ、人々は鉄道が地域から消えたことに対して大きな喪失感を抱いているだろうことが伺えた。「私たちの地域にはかつて鉄道が走り、たくさんの人たちが行き交った」のだと…。

 過疎化は日本全体が抱える大きな課題である。日本全体の人口が縮小することはもはや避けられない現実であると伝えられている。としたとき、その衝撃を最小限にして新たなる道をどう創っていくかが各自治体、ひいては日本全体にとって乗り越えねばならない大きな課題なのだと思う。


映画 プラスチック・チャイナ №266 & アカデミー賞

2020-02-11 17:20:45 | 映画観賞・感想

 プラスチック製品のゴミの山に埋もれる主人公たち…。日本をはじめ諸外国から輸入されたプラスチックのゴミを中国の貧しい人たちがリサイクルに取り組む現場を活写したドキュメンタリーであるが、その風景はあまりにも痛々しい…。

        

 2月9日(日)午後、札幌市生涯学習センターホール(通称:ちえりあホール)においてリサイクルプラザ宮の沢が主催する「エコトーク映画会」が開催された。映画会の前に環境カウンセラーの中井八千代氏のエコトークが行われ、プラスチックごみが日本だけではなく、今や世界規模での問題なっていることを報告し、私たちへの自制を求めた。

 続いて、タイトルの「プラスチック・チャイナ」の映画会となった。映画は2016年、中国の監督によって制作されたドキュメンタリーである。

   

 映画の舞台は中国の小さな家族経営のプラスチックリサイクル工場である。工場主はまだ若く、汚い仕事の工場ではなく他の仕事に就きたい思いもあるが、農村出身で何の特技があるわけではなく、生きていくためにできることは工場を必死で営むしかないと何度も嘆く。そこで働くのが、他のまちからやってきた少女イージエをはじめとした一家である。イージエは学校へも行けず幼い兄弟の世話をしながら父の仕事を手伝い、いつか学校へ行けることを夢見ている。しかし、飲んだくれの父親は学校へ通わせる金はないといって許してはくれない。仕方なくイージエはゴミ山から見つけてきた雑誌や広告を教科書代わりに、言葉を学ぼうとする…。そんな日常を映画は淡々と描いたものだったが、劣悪な環境の中で、健康被害も心配される目を背けたくなるような情景が続いた。

      

 映画は中国当局にとっても衝撃をもって迎えられたようだ。この後、中国は各国からプラスチックごみの輸入禁止の措置が取られたが、その決定に影響を与えたとも伝えられている。

 先のエコトークで中井氏は、年間のプラスチックの使い捨て量の世界一がアメリカで、続いて日本、中国の順だという。中国が輸入禁止の措置を取った今、日本のプラスチックごみは行き場を失ったのだ。私たちは一人一人が真剣にプラスチックごみの削減を否応なく迫られていることを実感させられる映画だった。

 

アカデミー賞余話

        

 本日の新聞は、今季のアカデミー賞の作品賞に韓国映画の「パラサイト 半地下の家族」が選出されたことを大々的に伝えている。「パラサイト 半地下の家族」は作品賞だけではなく、同時に監督賞、脚本賞、外国長編映画賞も同時に獲得した。私はいち早くこの映画に注目し(といっても新聞の映画評論に頼った結果なのだが…)、1月15日に観賞しその映画の良さを拙ブログに投稿していた(https://blog.goo.ne.jp/maruo5278/e/f8a287bc117c6bff69096d6457553744)ので、本日の新聞を見てちょっと嬉しい思いを抱いたのである。新聞によると(アメリカから見て)外国語映画の作品賞受賞は初めてだそうである。このことがまた姦しい話題も提供しているようであるが、ここはアジアの映画のレベルが上がってきている証拠だと思い、素直に受賞を喜びたいと思う。

 アカデミー賞の受賞によって「パラサイト 半地下の家族」が再び上映されるのではないだろうか?まだ未観賞の方はできればご自身の目で観ていただき、この映画の良し悪し、あるいは魅力を味わっていただければと思う。

 


武四郎は何を見たのか?

2020-02-10 19:55:27 | 講演・講義・フォーラム等

 蝦夷地探検で名を馳せた松浦武四郎は、当時(江戸末期)の蝦夷地の道なき道を歩み、都合6回もの蝦夷地探検を果たしている。その最後の旅となる1858(安政5)年の6回目の旅では札幌を3泊4日かけて横断している。その最後の旅で「武四郎は何を見たのか?」読み解く講座に参加した。

          

 2月8日(土)午前、札幌市博物館センターにおいてミュージアムトーク「武四郎は何を見たか?」が開講されたので、遠路はるばる駆け付けた。遠路と表現したが、札幌市の博物館センターはもともと私の居宅から近い中央区の北1条西9丁目にあったのだが、現在は豊平区平岸に移転していた。そのために地下鉄を乗り継いで、あまり目立たない住宅街の一角にある引っ越し先に駆け付けたのである。

   

   ※ 札幌市豊平区平岸の住宅街の一角に建つ「札幌館活動センター」の建物です。

 ミュージアムトークは同博物館センター古沢仁学芸員が担当された。古沢学芸員は地地質学が専門ということで、武四郎が辿った経路や宿泊地を地質学的に考察するということだったが、武四郎が著した「後方洋蹄日誌」をしっかりと読み込んだうえでのトークであり、古文書にも詳しい方のようであった。

 武四郎の蝦夷地探検最後の旅は、「後方洋蹄日誌」によると函館から入り(札幌近辺までは省略して)現在のルスツからルベシベツ峠(現在の中山峠よりは西側にあたるようだ)を超え、ウスベツ川沿いに歩いて豊平川との合流点で定山渓の湯どころを見つけ、そこで一泊している。(1858年3月24日)、その後豊平川沿いを下ったという記述であるが、豊平川の上流河岸は断崖絶壁のところが数か所あり、困難を極めながら進んだそうだ。そして現在の花魁渕の近くのヨコシナイ(現在の真駒内公園内)で2泊目をしている(アイヌの住居)。さらに3泊目は豊平川が札幌市内に入ると当時は幾筋もの流れに分かれていたことから複雑な経路を辿り、コトニ(現在の発寒地区)のアイヌの知り合いの家に宿泊していることが「後方洋蹄日誌」から読み取れるとした。

 武四郎の凄いところは、身長わずか4尺8寸(150cm)の小柄な体躯ながら、道なき道を一日に平均10里(40キロ)は軽く歩いたという並外れた健脚の持ち主だったということだ。私など整備された現代の道でも、例え40キロを歩けたとしても、次の日は完全にダウンである。武四郎はそうした旅を何日も続けたというのだから驚愕以外の何物でもない。その精神力たるや、私たち現代人も少しは見習いたいと思うのだが…。

          

※ センターでは同時にミニ企画展も実施していました。そこに武四郎の実物大の写真がありました。身長150Cm足らずの武四郎の写真です。

 ともかくそうして蝦夷地全域を隈なく歩き回った武四郎が最後の探検で得た成果を講師の古沢学芸員は次のようにまとめた。

◇山越新道の開削と温泉経営の進言

◇「在住」と「御手作場」の在り方について進言

◇札幌が陸運と水運が整備されれば交通の要衝となることを進言

◇アイヌへの虐待を公にすることで「場所請負制度」の廃止への契機をつくった。

進言という言葉を多用したが、この時の探検は幕府の役人としての蝦夷地探検だった。

 また、武四郎が最後の旅で見たものについても次のようにまとめられた。

 ◇札幌の原風景

 ◇アイヌの悲惨な状況

 ◇大都市となる札幌の未来

 紀伊の三重で生まれた武四郎が遠い蝦夷に注目し、困難極める蝦夷地を6度にもわたって探検したことは彼の中に蝦夷地に対する特異なる思い入れがあったに違いない。だから彼は蝦夷地の実状を微に入り細に入り幕府に進言した。しかし、彼の思いがストレートには幕府に伝わらなかったようだ。晩年は全ての役職を辞し、屋号を「馬角斎(ばかくさい)」と称したところに、彼の思いの全てが込められているように思う。毀誉褒貶が激しかった武四郎だったとも聞く、しかし今道産子の我々にとっては、彼が歩き、詳述した日誌の数々は当時の蝦夷地を活写する貴重な資料であったことは間違いない。武四郎の偉業に心より感謝の念を捧げたい。

 

※ この日、私はいつも手持ちのコンデジを忘れてしまうポカを演じた。仕方なくスマホで撮ったのだが、PCへの取り込みに何度も挑戦したがダメだった。ということで、今回使用の写真は全てウェブ上から拝借した。