田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

到来間近し?水素社会

2014-11-21 17:26:43 | 講演・講義・フォーラム等
 現在考えられる中では、CO2を排出せずに最も利用可能なクリーンエネルギーである水素の実用化が意外にも(と思っていたのは私だけかもしれないが)近くまで来ているとを実感させてくれるシンポジウムだった。 

 11月20日(木)午後、国交省北海道開発局と北海道が主催して、ロイトン札幌において「北海道のおける水素社会の実現に向けて」と題するシンポジウムが開催され参加した。

          

 シンポジウムは、研究者、行政、メーカーの方々がそれぞれの立場から水素社会の到来間近しといった感の講演、及び報告があった。全体で3時間30分に及ぶシンポジウムはかなりボリュームもあり、専門的な内容も多いものだった。
 私がその全てを理解できたわけではないが、私の理解できた範囲内でのレポートを試みてみたい。

 まず、岩谷産業の谷氏が水素エネルギーの利点をコンパクトにまとめたものを提示してくれた。それによると、
  ◇水素 = クリーンエネルギー
  ◇水素 = CO2フリー
  ◇水素 = 安全
  ◇水素 = 水から生まれ水に還る
  ◇水素 = 貯蔵可能なエネルギー
  ◇水素 = 輸送可能なエネルギー
と提示してくれた。

          

 このまとめにそって、私の理解を述べてみることにする。

 まず、クリーンなエネルギーということだが、この点については既に大方の理解を得ているとおり、水素エネルギーを燃焼させても排出されるのは水だけというきれいなエネルギーということだ。

 CO2フリーについては、今のところ水素の製造過程で電力を必要としているため、完全にCO2の排出をゼロとするわけではない。ただし、この電力を再生可能エネルギーで賄うことができるようになれば文字どおりのCO2フリーなエネルギーとなり得るということだ。

 次の「安全」については、私が今回のシンポでは理解できなかった点である。
 というのも、水素は脆化(もろくなること)しやすいため、水素の貯蔵、取り扱いは化石燃料よりははるかにインフラ整備に費用がかかるということである。
 この点については、あるいは気体の水素がもし漏れたとしても空気中では酸素と結びつき水になるだけ、という点で安全としたのだろうか?

 4点目はすでに触れているので省略するとして、5点目、6点目については、水素は気体・液体・固体とあらゆる形での製造が可能なため、貯蔵・輸送がしやすいエネルギーだということである。

 こうした有為なエネルギーを利用した乗用車「MIRAI」が今月中にトヨタから市販されることが発表されたのはつい先日のことである。ホンダも間もなく、ニッサンも続いていると聞いた。
 トヨタの開発責任者である三谷氏は水素自動車の開発では、間違いなく日本がトップを独走しているという。

          

 水素エネルギーの利用はもちろん自動車業界だけに止まらない。
 あらゆる分野での利活用のための研究開発が産・官・学それぞれで進められているようである。

 ここで私の目を惹いたのが室蘭市長の青山剛氏の講演である。青山氏は夕張市長の鈴木直道氏とともに青年市長として一躍有名なった方である。
 室蘭工大出身の理系らしい緻密な論理構成と情熱がほとばしるような講演は、「室蘭から北海道水素社会を創る」という気概に満ちたものだった。
 事実、室蘭市は2005年にいち早く「室蘭水素コミュニティ懇話会」を起ち上げ、来るべき水素社会へ向けての取り組みを開始しているのだ。すでに再生可能エネルギー由来水素の利活用の実証実験を開始しているという。
 何かにつけて中央から後れをとる北海道だが、それを克服すべく、移動式水素ステーション、続いて定置式水素ステーションを設置をいち早く進め、モノづくりのDNAを受け継ぐ室蘭市が北海道の水素社会実現ためにリーダシップを取っていきたいと力強く語った。

          

 まだまだ多くの研究者、メーカー、行政の方々が語ったのだが、私の理解を超えている部分もあった。ただ、特にメーカーの研究速度は目覚ましく、水素社会の実現がかなり近くまで来ていることを実感させられるシンポジウムであったことは間違いない。

 余話を一つ…。私の前にいた高齢の方が「北海道は情報が遅すぎる!」と云いながら途中で席を立っていった。そういう面は確かに否めない点かもしれないが、彼は講演中に居眠りをして大して聞いていなかったように見えた。あるいは照れ隠しのために後の席の我々にそんな呟きを残して席を去ったのかもしれない…。

《追記》
 今朝(11/22)のNHK総合TVのニュースの特集で、水素由来の燃料電池自動車 MIRAI について放送していた。すると、その中で私が「安全」について記したことの認識が間違っていたこと気付いた。私は水素(気体)が漏れたとしても酸素と結びつき水になるだけとしたが、水素が酸素と結びつくこと自体が大変危険なことに気付いた。そのため、燃料自動車の開発にあたっての大きな課題の一つが液体化した水素がけっして漏れないようなタンクを製造することだった、とニュースは伝えていた。
 このことは、インフラ整備においても水素ステーションの設置が、ガソリンスタンドとは比べものにならないくらいの設備費を必要とすることに繋がるのかもしれない。そこが水素社会到来に当たっての一つの課題のような気がする。
 ところでそうすると、岩谷産業の谷氏が「水素は安全」と指摘した意味が分からなくなってきた。

札幌ぶらり散歩 25 二つのサイロ

2014-11-20 21:28:11 | 札幌ぶらり散歩 & Other
「札幌ぶらり散歩」とは、札幌市内の歩道のできるだけ未体験のところを歩くことによって、新たな発見や心に留まった光景などをレポートしようとするものである。 

 ひばりが丘の市営住宅群の中にある「ひばりが丘西公園」の一角に立つ「旧馬場農場のサイロ」は「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選定されているので有名だが、そのサイロとそっくりなサイロをもう一つ発見した!

          
          ※ ひばりが丘公園内の「ひばりが丘西集会所」の横に建つ「旧馬場農場のサイロ」です。
           その横の白い建物が「ひばりが丘西集会所」です。

 
 「札幌第2時計台」を見た後、私は南郷通り沿いの北側を新札幌まで歩くことにした。
 南郷通り沿いの北側には高層ビルの市営住宅群「ひばりが丘団地」が広がっていた。ウェブ上で調べてみると、その総棟数は61棟、総戸数は1,613戸ということだから壮観であった。(ありふれた光景だと思い写真は撮らなかった。失敗!)

          
          ※ サイロの壁を大写しすると「札幌軟石」が石材であることが分かります。
          

 その団地の中に「ひばりが丘西公園」があり、その一角に「旧馬場農場のサイロ」が立っていた。昭和2年に建てられたということで、材料には札幌軟石が使われていた。
 内部の覗いてみたいと思い、側に建っていた「ひばりが丘西集会所」に赴き、管理人にたずねたところ、残念ながら内部は公開していないとのことだった。

               
               ※ サイロの入口がありましたが、固く閉じられていました。
                その前には「さっぽろ・ふるさと文化百選」のプレートがありました。 

          
 サイロの前に「さっぽろ・ふるさと文化百選」のプレートが立ち、そこには次のような説明がなされていた。
 「種畜生産と乳製品の加工を目的に馬場和一郎氏が創設した農場のサイロである。高さ9m、直径6.15mで、当時最大級の規模であった。農場は昭和17年(1942年)頃旧内務省、その後旧国鉄の所有となり、同33年(1958年)に札幌市が買収して、翌年から『ひばりが丘団地』が造成された。その後もサイロは残り、現在では貴重な歴史的遺産として、また団地のシンボルとして保存されている」と記されていた。
 さらに建築年 昭和2年(1927年)、構造 石造 と記されていた。

          
          ※ そのプレートを大写ししたところです。

 その後、団地内を新札幌に向かって東に進んだ。
 すると、しばらく行ったところにまたまたサイロが現れた!?
 そこのサイロは石造りではなく、建物と一体となる形で建っていた。その建物とは「ひばりが丘東集会所」である。
 「ははあ~ん」と私は思った。
 団地のシンボルであるサイロを、東集会所を建てるときに西集会所と対比するようにサイロを配したのだな、と…。

          
          ※ 「ひばりが丘東集会所」に併設されるように立っていたサイロです。

 私の思いを確かめるべく、東集会所に赴き、管理人にたずねた。しかし、管理人は「はっきりしたことは分からない」とつれない返事だった。そして、そのサイロ型の部分は何の役割もはたしていないとのことだった。
 集会所を建てるときにはきっと私が思ったような思いで設計されたのだろうが、時代が経ってその思いは受け継がれずに形骸化してしまっているということだろうか?

札幌ぶらり散歩 24 札幌第2時計台??

2014-11-19 19:19:09 | 札幌ぶらり散歩 & Other


 厚別区にある札幌第2時計台(と私が勝手に名付けた)を見に行った。私は2009年の4月に一度見たことがあったのだが、懐かしさに駆られて出かけたのだ。そこには5年前と同じように懐かしい時計台がそびえていた。 

 昨日(11月18日)、特に予定のなかった私は「札幌ぶらり散歩」を始めてから初めての遠出をした。地下鉄を使って東西線の「ひばりが丘」駅まで移動した。リード文にも書いたとおり「札幌第2時計台(?)」に再会するためにである。
 併せて、11月の一日平均歩数を1万歩超えとするために、できるだけ歩数を稼ぐねらいもあった。

          

 「ひばりが丘」駅に着いて、直ぐに厚別の時計台に向かった。
 時計台は国道12号線を跨いで、JR函館線沿いの建設会社(厚別区厚別中央4条2丁目)の社屋屋上にある。
 その時計台は5年前と同じく建設会社の3階建ての社屋の屋上にそびえ、時刻も正しく指していた。

          

 何枚かの写真を撮った後、「なぜ社屋の屋上に札幌時計台と酷似した時計台を設置したのか」を聞いてみたくなった。
 社業に関係ないことでの質問は迷惑かもしれないが、受付担当の社員ならあるいは答えていただけるのではないか、と思い社屋に近づいた。
 すると、大きな窓ガラスが入った1階の事務所らしきところには荷物などが置かれ、社員らしき人が見えなかった。

               

 会社の看板は確かに掲げられているのに「不思議だなぁ?」と思いながらも、それ以上は追求する手立てもなく、私の「札幌第2時計台」の訪問は幕を閉じたのだった。

          

 後日談がある。
 念のため、帰宅してからその会社(分かる人は分かると思いますが、あえて会社名は伏せることにします)のことを調べてみた。すると、残念なことに今年の9月30日をもって会社の事業を停止したとウェブ上で伝えられていた。
 ユニークな屋上の時計台はどうなるのだろうか…。


※ 実は私はもう一ヵ所、札幌時計台を模した建物を知っている。そこもいつかは訪れてみたいと思っている。あるいは、その他にも市内にはあるのかな? 知っている方がいたら情報を提供してほしいと思うのだが…。

札幌軟石あれこれ

2014-11-18 18:34:09 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌軟石をはじめとして、小樽の軟石、さらには美瑛軟石の現状について関係者が語った。そしてまた、札幌軟石のこれからの可能性についてチャレンジを続ける若者の話も聞いた。

          
          ※ 札幌軟石を使用した代表的建造物である「札幌市資料館」の外観です。

 あちこちと興味関心が散漫な私である。今度は「札幌軟石」のセミナーに出かけた。
「札幌軟石」について私は、2010年に「札幌建築観賞会」なる団体が主催する「札幌軟石発掘大作戦」に参加したという過去もあり、多少は関心を抱いていたこともセミナー参加の動機だった。

 セミナーは、11月16日(日)午後、札幌軟石を建築材に使っていることで知られている札幌市資料館(旧札幌控訴院)を会場に開催された。
 テーマは「北海道の軟石文化『これまで』と『これから』」題して、札幌軟石文化を語る会代表の岩本好正氏、小樽市総合博物館の大鐘卓哉氏、美瑛町役場の中山勝利氏(代理)の3人が軟石文化の「これまで」を語った。
 続いて、軟石工房「軟石や」の小原恵さん、東海大デザイン文化科の須永涼さんが軟石文化の「これから」を語った。

 まず、それぞれの軟石の出所であるが、札幌軟石は支笏カルデラの火砕流がその源であると岩本氏が語ったのに対して、小樽軟石は海底火山の噴出物がその源であると大鐘氏は語った。また、美瑛軟石の方は大雪山の噴火による火砕流がその源であるという。そのいずれもが多少の性質の違いはあるものの全てが凝灰岩である。

          
          ※ 札幌軟石を産出した跡を公園化した石山緑地です。

          
 ここで悩ましいのは小樽の場合である。小樽には軟石が使用された建物が市内に数多く現存しているのだが、その一部には札幌軟石が運ばれて使われている場合があるということだ。
 というのも、小樽軟石は産出量が少なく札幌軟石を加えることによって多くの石造建築が建てられた(例:小樽運河の倉庫群など)ことから「小樽の軟石」と呼ぶこともあるそうだ。

          
          ※ 小樽運河の倉庫は小樽軟石と札幌軟石が混合しているとことです。

 一方、美瑛の方であるが、こちらで有名なのがJR美瑛駅である。さらに、美瑛の町並の区画整理事業の際に建物の腰の部分に美瑛軟石を使用する建築協定により、本通りの新しい建物全てで美瑛軟石が一部使用されているということだ。
 ただし、美瑛軟石は現在生産されておらず、保管しているものだけという状態ということだった。

 このように今現在もそれぞれの街の各所で軟石が使用された建物が現存はしているが、これからの建築材としての将来は必ずしも明るいものではないようだ。
 そうした中において、新しい動きで出てきていることを「これから」の部で二人の若者が語ってくれた。

          
          ※ 東海大生が考案した札幌路軟石に彫刻を施した石版(?)です。

                     
 小原恵さんは、もともと札幌軟石の産出企業である辻石材工業の社員だったそうだ。社員として札幌軟石の端材の活用法を考えているうちに、置物やアクセサリーといった小物の制作を思い立ったということだ。それが人気となり、社業としては限界があるため「軟石や」として独立したということである。特に、軟石に香りを浸みこませた「かおるいえ」という作品が人気とのことだ。

          
   ※ 小原さんが考案した「かおるいえ」です。札幌軟石にアロマオイルを染み込ませたアイデアが人気を呼んだそうです。

          
 一方、東海大の須永涼さんは、小原さんが大学に商品開発を持ちかけたことにデザイン科として取り組むことになった学生の一人として発表した。学生らは若者らしい斬新なアイデアをいろいろと手がけ、それらをオータムフェストで試験販売したところ大変好評だったということで、引き続きさまざまなアイデアを持ち寄って商品開発に繋げたいということだった。

               
               ※ こちらは軟石の表面を磨いて書の台紙(石?)に見立てたものです。横の小物にも注目!

 札幌軟石は質感の柔らかさとともに、レトロ感を醸し出す雰囲気を有しているように思われる。効率一辺倒の現代建築の中の一部に用いられることも増えてきたようだ。
 さらには、端材として廃棄物化される札幌軟石を活用する動きが出てきたことも札幌軟石にとっては明るい材料である。
 多くの近代建築が林立する札幌市内において、札幌軟石は目立たない存在であるかもしれない。しかし、一時期建築材として隆盛を誇り、今なお市内各所で息づく札幌軟石が札幌の文化財として末永く現役として存在し続けてほしいものである。

電力全面自由化って?

2014-11-17 23:32:50 | 講演・講義・フォーラム等
 2016年4月から一般家庭においても電力を既存の電力会社以外からも購入できる制度がスタートするという。その自由化は私たちにどのようなことをもたらすか? はたまた日本全体にとっての電力事情とは? ちょっと込み入った話を聞いた。 

 11月15日(土)午後、TPK札幌駅カンファレンスセンターにおいて、NPO法人北海道グリーンファンドが主催する「電力全面自由化セミナー」に参加した。
 北海道グリーンファンドは募金を集めて市民風車を設置するなど、自然エネルギーの積極的活用を推進していることで知られる団体である。
 今回のセミナーは、さまざまな立場の三名の方々から「電力自由化とこれからのエネルギー社会」、「新しい電力会社の誕生」、「ご当地電力事情」と題しての報告があり、その後フロアから質問に答えるという形で進められた。

 セミナーは時間も長く、たくさんの内容だったので、その全てをレポートすることはとてもできないので、私なりにその要点をまとめた形でレポートしたい。

          
          ※ 3者の報告後、フロアからの質問に答えるために登壇した報告者たちです。

 電力の自由化とは、これまで各電力会社の既得権益(?)だった総括原価方式と地域独占体制の形を変えていくものと理解できる。
 その具体的な形としては、これまで電力会社が〔発電〕、〔送配電〕、〔小売〕の全てを一社が担っていたものを、それぞれ分社化することによって、特に発電部門がこれまでの電力会社以外の企業や団体の発電事業が可能となり、かつまた一般家庭においてもこれまでの電力会社以外からの購入も可能となる制度だということだ。

 しかし、だからといって現在日本が抱える電力問題がいっきに解決するかというと、それはまた別問題であるようだ。その一つは、〔送配電〕部門は相変わらず現電力会社が一手に担う方式は変わらない。つまり、某事業者が発電したとしても、それを送配電するには既存の電力会社に依頼しなくてはならないということだ。
 また、発電方式にしても自然エネルギー関係は発電コストが圧倒的に高く、事業として可能となるためには助成金頼みのところがあり、発電量の総枠は押さえられる。可能性として講師はコストの低い石炭発電が増えるのではないかとも言及した。

 また、今回の自由化によって〔小売〕部門へさまざまな産業が進出する可能性があるという。例えば、通信会社が電話とセットでの電力発売とか、流通・金融業界が顧客の決済口座を設けてポイントサービスをするとか、というような形での参入が考えられるという。

 こうした状況の変化を受けて「生活クラブ生協」では、自分たちで出資して風車を建設し、電力を産み出し、その電力を自分たちで消費しようと目ざしているという。立ちはだかる壁は高いようだが、新しい動きとして注目される。

          
          ※ 本文では触れなかったが、再生可能エネルギーから水素を作る動きが加速化しているという。
           写真は本年中に市販が開始されるというトヨタの燃料電池車「MIRAI」だそうです。

 まだまだ多くのことが語られたが、私の手には余るものがある。
 ともかく、これまで日本の電力事情は国内電力会社10社によって地域独占体制が形作られていたが、それがここにきていろいろな問題を生じる事態となっている。
 今回の改定によって、いっきに国内事情が変わるとは思えないが、少なくとも地域独占体制に風穴が開けられ、事態が動いていくキッカケとはなりそうだなとは思われた。

札幌ぶらり散歩 23 ユニークな名称が続々…

2014-11-16 20:23:18 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 トトロの杜、シャネル○○、ルビナス…。これはいったい何の名称でしょう?八軒9~10条界隈を歩いているときだった。次々とユニークな名称を冠した建物が目の前に現れた…。 

 11月12日、この日は八軒の東地区の6条から10条周辺を歩いた。
 この辺りで目立ったのは、一般の住宅とともに小規模の集合住宅(マンション)だった。
大規模のマンションはあまり見当たらなかったのだが、小さなマンションが目立った。
 八軒9条東1丁目に差しかかったときだった。小さなマンションの壁に「トトロの杜 Ⅲ-B」と書かれていた。「トトロの杜がマンション名になるんだぁ!?」と思いながら、近くにあったマンション(アパート)の名称を注意してみると、ユニークな名前の建物が次々と目に入ってきた。

          

 「シャネル八軒」、「エイトシティ」、「ルビナス IK」、「アビタシオン ラ ネージュ」…。
 これらの名がわずか2ブロックの中で次々と目に飛び込んできた。

          

 大規模のマンションに限らず、集合住宅には名称が付けられているのが通常のようである。とすると、札幌市内には大小合わせると数えきれないほどの集合住宅(マンション)があると思われる。それら一つ一つに違った名称を付けねばならないのだから、家主(オーナー)も大変である。
 分譲にしても、賃貸にしても、入居者にアピールするする名前を!と考えるのだろう。

          

 「シャネル八軒」とか、「エイトシティ」などは八軒をどこかで連想させるが、「アビタシオン ラ ネージュ」となると、いったい何語なのだろう? そしてその意味は?

          

 マンション名ばかりでなく、飲食店などの店の名称にもユニークな名が目に付くことがある。そんな名称を気にしながら「ぶらり散歩」を楽しむの一興かもしれない…。

          

札幌ぶらり散歩 22 ちょっと昔は近代的?

2014-11-15 23:54:37 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 それはきっと…。一昔前なら近代的なアパートと云われていたのかもしれない。
当時ではかなり大規模なアパートと見られていたのでは?その一角は同じ意匠(デザイン)の部屋がずらーっと並んでいた。
 

 ウェブ上で知り合ったある方に刺激を受けて、せめて11月の一か月間くらいは一日平均の散歩歩数を一万歩にしようと毎日務めている。
 日によっては一日3,000歩、5,000歩などいう日もあるので、平均一万歩にするには大変だが、今のところなんとか平均で一万歩近くを維持している。

                    

 そうした中で、気になる光景を探しているのだが、最近はなかなかそうした光景に出会うことが少なくなってきた。
 この日(11月12日)は、以前歩いた八軒地区の北側を歩いたのだが、住宅街とあってなかなかレポできるような光景はなかった。
 ただ、この日歩いた八軒地区は大きな集合住宅(マンション)は見当たらないものの、小規模な集合住宅が目立ったのだが、その中にちょっと気になる光景が待っていた。そこは八軒6条東4丁目だった。

          

 三色に色分けされ大きな建物三棟が目に入ってきた。
 建物のデザインは三棟とも同じデザインに統一されている。建物の前には入居者のための駐車スペースが設けられている。
 ただ、全ての建物が二階建てであるということだ。これだけ広い敷地を有していれば、最近だともっと高い建物を建てるのではないだろうか?

          

 いったい何時頃に建築されたアパートなのだろう?
 建築された当時は近代的なアパートとして周りの注目を浴びたのではないだろうか?
 建物の特徴として、二階建てということもあるのだろうか?二階の住居人のための階段が外階段になっていることが一つの特徴ではないだろうか?

          

 そのアパートの一画にちょっと面白い光景があった。
 駐車スペースの片隅に、板で囲んだ小さな小さな菜園があった。
 猫の額とは良く表現したものだが、まさに文字どおり猫の額ほどの菜園で野菜の生長を楽しむ住民の方の姿を想像した私だった…。


不登校体験者に聞く シンポジウム

2014-11-14 17:50:15 | 講演・講義・フォーラム等
 登壇した三人の不登校体験者は、不登校になったキッカケに大きな理由はなかったと口を揃えて答えた。講師は不登校に至る主な原因は「自尊感情」が低下したからだという。いずれも小学校の高学年の時にそれは発していた。元小学校教師として自省を込めながらシンポジウムを拝聴した。 

          

 11月9日(日)午後、クラーク記念国際高校白石キャンパス(白石区平和通2丁目北11-18)において「不登校の子供を考えるシンポジウム」が行われ、参加した。
 シンポジウムは、現在クラーク記念国際高校に学ぶ、不登校経験者三人が体験談を語った後、多くの不登校生徒の復学を助けている玉川大学教職大学院の田原俊司教授が「新年度を見すえた学校支援の方法」と題して講演する2部構成だった。

          

 三人の経験者はクラーク高校の先生がインタビューする形で自身の体験を語ってくれた。不登校に陥っていたときは誰とも話すことを嫌がっていたという三人は、饒舌とまでは言わないまでも、先生の質問にとても素直に答えていた。(もっとも、三人はクラーク高校に入学して本来の自分に立ち帰った代表選手であるという側面もあるのだが)

 三人の話の中での共通項は、彼らの周りにいた家族であり、担任の存在だった。
 不登校になった当初は、どの家族もその状態を嘆き、なんとか学校へ通わそうと無理するが誰もがそのことに反抗し、やがて家族もあきらめの境地になるコースを辿っていた。
 そして長い時間を経たうえで、やがては家族は子どもの話に耳を傾けるようになる段階を経て、回復に至っていったということだった。

 担任など学校の教師の対応の仕方については、それぞれマチマチの対応だったようであり、それなりの働きかけをした教師もいたようだが、彼らに大きな影響を与えることはなかった、という彼らの反応だった。
 残念なことであるが、悩める彼らに対して学校の教師は無力ということか?

          
          ※ さすがクラーク高校です。校長の三浦雄一郎氏のコーナーがありました。

 体験談の後、田原教授の講演があったが、そこで田原氏が不登校生徒の復学を助けるためには、何より「自尊感情を高める」ことだと強調された。日本人の特性として自尊心を抑えがちのところがある。(謙譲の美徳?)そのこともあり、自尊感情を傷つけられ不登校に陥る子が多いということなのかもしれない。

          
          ※ 講演をする田原俊司玉川大学教職大学院教授です。

 その「自尊感情を高める」ために、田原氏は(1)規則正しい生活リズムの確立、(2)心の居場所(家庭やフリースクール)をつくる、(3)集団で自分の役割を果たす体験と、互いを認め合う集団づくり(キャンプなどの体験)、が必要だと説いた。

 不登校対策には「自尊感情」というのが大切なキーワードのようである。
 田原氏はさらに、脳の快楽中枢を刺激する「ネットゲームへの対応」も不登校対策には欠かせない課題である、とした。

 いずれにしても日本における不登校の児童生徒はやや減少傾向とはいえ、小・中合せて12万人前後と推定され、大きな社会問題である。
 不登校に陥らないよう家庭や学校においては子どもの「自尊感情」を傷付けぬ配慮とともに、不幸にして不登校に陥った際には周り(家庭・学校)の慎重なサポートが必要ということになるようである。(ちょっと安易とも思える結論であるが…)

札幌ぶらり散歩 21 凛とした日本家屋

2014-11-13 15:52:35 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 その日本家屋はけっして広壮な住宅ではないものの、コンクリート製の住宅やマンションに囲まれた中で、その日本家屋は凛とした佇まいで存在感を放っているように見えた。 

 この日(11月7日)の私は午前から午後にかけて用件があって、それが終えたときには夕方近くなっていたこともあり、自宅の付近を歩くことにした。すでに歩いていたところが多かったのだが、一つだけ心に留まった光景に出会った。

          

 周りがコンクリートの住宅やマンションに囲まれた中に、ちょっと古風な民家が建っていた。そうした光景はけっこう札幌市内でもあちこちで見かけるのだが、この民家が気になったのは、窓枠を囲んでいた鉄柵である。白くペンティングされた鉄の柵がよく手入れされているように感じられたのだ。

          

 よく見てみると、建物のその他の部分もとてもよく手入れが行き届いているように見えた。
 隣家との間に小路があったので裏側に回ってみると、けっこうな広さの菜園があった。その菜園も秋も深まったこともあり、きれいに整理されていた。さらには、庭に立っていた立木を整理したのだろうか?小さく薪状にした木が並べてあった。

          
 
 小さなエピソードがあった。
 私が建物の側で住所をi-phoneでチェックしているときだった。(今回はあえて住所は記さないことにします)
 犬の散歩をしているご婦人が通りかかった。すると、連れていた犬が民家の玄関のところから離れようとしないのだ。婦人は犬に「ほら、今日はおじいちゃんも、おばあちゃんもいないから帰るよ」と語りかけていた。
 この家の主人は年老いたご夫婦のようである。

          

 どのくらいのお歳の方なのだろうか?
 高齢(?)にもかかわらず、几帳面に菜園を整理され、家屋の手入れも万全である。
 良き日本人の矜持をもった方のようである。
 そんなお年寄りになりたいものだが…。

          

 それは周りをコンクリートの建物に囲まれながらも、日本家屋の良さを誇るように凛とした姿で立っていた。

清冷なる調べ 全道ハンドベルフェス

2014-11-12 17:04:19 | ステージ & エンターテイメント
 北海道内でハンドベルを愛好する人たちの祭典にお邪魔した。延々5時間半(休憩を挟みながら)にわたって清冷なる調べを堪能した。第30回北海道ハンドベルフェスティバルは新しい発見ももらしてくれた。 

          

 別にハンドベルが好きだというわけではない。たまたま近くでフェスティバルが開催されると知って、好奇心の塊(?)を自認する私はのこのこと出かけたのだった。 
 11月8日(土)午後、日本ハンドベル連盟北海道支部が主催する「第30回北海道ハンドベルフェスティバル」が教育文化会館において開催され、お邪魔してきた。   

 フェスティバルには全23団体(チーム)が出場した。うち4団体は30回記念ということで東京から駆けつけてきた団体だった。
 ステージに上がった団体は、言葉は悪いが玉石混交といった感じだった。
 主婦や高齢者の趣味のサークル、学校の部活動的な団体、本格的にハンドベルを極めようと取り組んでいるサークル、等々…。
 そもそもハンドベルの発祥が教会の鐘の打ち方を練習するために生れたという経緯もあって、学校として取り組んでいるところはクリスチャン系の学校で取り組んでいるところが多いようだ。(遺愛女子中学校、とあのもり三愛高校、北星学園大学、札幌国際大学、立教大学、etc.)

          
          ※ この日、演奏中の写真はNGだったので、休憩中にベルを準備する光景を撮らせてもらった。

 小学生やレベルが低いグループは、私のような素人が見ていても微笑ましく感ずるが、レベルが高くなってくると、何人もが同時に複雑にベルを操作し、多くの音が重なって聴こえてくるところにハンドベルの魅力が感じられた。

 多くのグループの中から、二つのグループが特徴的だったので、そのことに触れてみたい。
 一つは、士別市から参加した「アンドーレ・リンガーズ」という14人の3~40代の主婦層を中心としたグループである。まず、ユニフォーム(服装)である。ジーンズにTシャツという出で立ちで登場した。指揮者も同じだった。他のグループとは明らかに異質に感じられた。
 そして演奏もいわゆるポップ的な演奏なのだ。指揮者もステージを縦横に歩き回るようにして指揮していた。
 演奏技術としてはかなりのレベルであったが、私には違和感が残った。ハンドベルのイメージからはかなりかけ離れた演奏に聴こえたのだ。
 そのことを否定しようとは思わない。現代ではさまざまな分野で垣根を越えて、さまざまな可能性を探ることがあってもいいのだろう。
 ただ、私にはそうした音楽を志向するのなら、なにもハンドベルでなくてもいいだろう、という思いは拭えなかった。

 もう一つは東京から参加した「ハンドベルベリーズ」という5人のグループである。一つのグループとしては最小人数の編成だった。
 ところが!このグループが私には最も素晴らしいグループに映った。まったく少人数を感じさせない演奏なのだ。見ていると、一人ひとりが7~8個のベルを操っているのである。(他のグループでは多くて4個くらい?)それはまるでマジックを見ているような鮮やかさで、5人が踊るがごとくベルを操っていた。
「これぞ!ハンドベル!」…、そんな思いを抱かせてくれる演奏だった。

               
         ※ 写真はロビーに掲示されていた第1回の全道フェスのポスターです。1985年と記されています。

ハンドベルの音色を聴き続けること5時間半、この日私はハンドベルの清冷なる調べに酔った半日だった…。