三人の論客(保阪正康氏、姜尚中氏、加藤陽子氏)が今後の日本、北海道のあり方について多岐にわたって論じるフォーラムは知的興奮を禁じ得ないものだった。特に北海道について論じた点は傾聴に値する内容だった。
9月22日(土)午後、北海道新聞社主催の道新フォーラム「現代への視点2018~歴史から学び、伝えるもの~」が道新ホールで開催され昨年に続いて参加した。
このフォーラムは主論客であるノンフィクション作家の保坂正康氏を中心として10回目を数えるということだが、今回が最終回とのことだった。
今回のフォーラムの内容は、はじめに論客三人がそれぞれ30分間講演を行い、その後その三人の方々が同席されて話し合う(トークセッション)というものだった。
三人の方々の講演のテーマは次のとおりである。
◇保阪 正康 氏(ノンフィクション作家)
「天皇退位と新しい日本、そして北海道」
◇加藤 陽子 氏(東京大学大学院教授)
「北海道の位置づけを歴史的に考える」
◇姜 尚中 氏(東京大学名誉教授) ※ カン・サンジュン
「名もなき人々の歴史の記憶とその軌跡~明治維新150年に」
三人のお話を伺っていると、さまざまな社会事象等について自分の勉強不足を痛感させられる。さまざまな事象がいかに関連性をもって生じてきているかをそれぞれの方が鋭く指摘した。
ここでは私が三人の方々の講演内容を私ごときが要約することは敢えて断念し、詳しい内容については10月初旬に北海道新聞に掲載される記事に委ねることにする。
ここで三人のお話、そしてトークセッションから北海道について論じた点についてのみ、私の感想を交えながらレポートしてみたい。
保阪氏は北海道の精神的な自立を促す発言が多いように感じた。また、姜氏も北海道の独自性、アイデンティティを確立することを促した。一方で加藤氏はやや論を異にし、中央にもっと物申すことの重要性を指摘した。
私は今年、「めだかの学校」の中で講座を起ち上げるにあたって、北海道開拓時代の書物にいろいろとあたる経験をした。その中で、北海道の開拓にあたって国の考え、国の資金によって北海道の開拓が進められてきたことをあらためて知ることができた。そうした国中心の考え、国の資金に頼るという歴史が長かったことによって、私たち道民にはそうした思考方法が染みついてしまったのではないか、との思いを抱くようになった。
自分たちの住む地域のことを、自分たちの力で興していく、そして生起した課題も自分たちで解決していく、というある意味での独立性が大切なのではないかと語った保阪氏、姜氏の考えに私も同意したい思いである。
ただ、国は“地方創生”と叫びながら、必ずしもそういう方向を向いていない、という指摘が気になったが…。
今後の日本、北海道のあり方について多岐にわたって論じるフォーラムと知り、
私も拝聴したかった、と羨望致します。
やはり札幌は知的文化の優れた地域、と改めて知った次第です。
これとは別件ですが、本日の読売新聞・夕刊に於いて、
松浦武四郎氏の『西蝦夷日誌』に関して掲載されていましたので、
ご参考と思い、転載致します。
《・・[史書を訪ねて]西蝦夷日誌 北海道・積丹(しゃこたん)・・・海防考えた探検家・武四郎
【読売新聞】2018年9月25日・夕刊
此(この)処(ところ)岬に成(なり)、海中百間計(ばかり)にオカムイ〔立岩〕と云(いう)岩有(あり)。
名義、神也(なり)。
(中略)
丙辰(へいしん)〔安政三年〕の春迄(まで)は是(これ)より奥は女を禁じ置(おき)しを、
今期に入る様に成、浜千鳥と云賤妓(せんぎ)、また引越の者等(など)多く入込しが、
当年は別(わけ)て大漁なりと。
是迄松前にて女を此奥え入ると漁が無と言伝へ有しも、全く荒誕(うそ)なりしこと明(あきらか)也。
「西蝦夷日誌(にしえぞにっし)」(『新版 蝦夷日誌(下)』松浦武四郎(たけしろう)著、吉田常吉編、時事通信社より)
“積丹(しゃこたん)ブルー”の海に突き出た北海道積丹町の神威岬(かむいみさき)。
尾根に沿った散策路を約20分歩き、先端に着く。
その先の小島に、槍(やり)先のような形の神威岩が立っていた。
江戸時代、蝦夷地(えぞち)を治めていた松前藩は150年以上、
「不漁になる」として和人の女性がこの岬より船で北に入ることを禁じていた。
解禁後ここを訪れた探検家、松浦武四郎は憤った。
「女人が入った年、大漁になった。松前藩の言葉は明らかに荒誕(うそ)だ」――。
かつて岬を越えて少し進むと、この一帯のアイヌの人々と和人の交易の場「積丹場所」があった。
武四郎は〈産物、鯡(にしん)・鮭(さけ)・海鼠(なまこ)・鮑(あわび)・鱈(たら)・●(かすべ)・
鮃(ひらめ)・雑魚(ざこ)多し(中略)地味肥沃(ひよく)にして海に海草多し〉と記している。
江戸初期にできた同藩は、こうした自然の恵みを独占したかった。
ニシン漁などのための季節労働者はほしいが、定住者はいらない。
それで定めたのが、元禄4年(1691年)のこの女人禁制の藩令だ。
積丹町教委の阿部剛さん(37)は「家族で来られなければ、定住はしないから」と解説する。(●は魚へんに華)
荒誕(うそ)とは穏やかでないが、
それは武四郎が一貫して抱いていた松前藩への怒りの表れだった。
三重県の郷士の家に生まれた武四郎は、17歳から諸国放浪の旅に出た。
蝦夷地には、弘化2年(1845年)に28歳で初めて訪れ、東蝦夷地を踏査した。
その後も41歳までさらに5回かけて、アイヌと寝食を共にしつつ、蝦夷地全域を巡った。
旅の中、元々自由に狩猟や交易をしていたアイヌが、
和人商人が経営を請け負う「場所請負制」によって過酷な労働を強いられている現実を知る。
今は積丹町役場がある地域では、アイヌが30年ほどで4分の1に減ったと記し、
「この様子では〈十年を待(また)ずして〉絶えてしまうと思われる」と危惧している。
「男女問わず出稼ぎに送られる」、「娘たちは和人の妾(めかけ)にされる」などと指摘し、
この現状を招いた松前藩批判を強めていく。
ただ、ヒューマニズムに基づく批判――とすると、発想がいささか現代的過ぎるかもしれない。
アイヌを見る武四郎のまなざしの奥には常に、日本の国防を脅かすロシアがあった。
そもそも蝦夷地探査は、志士として北方の現状を知ろうとして始めた。
アイヌの心を離れさせず、一緒に開拓を進めてもらいたいとの思いもあったのではないか。
明治維新後、武四郎は新政府の役人になる。
蝦夷地の新名称案を問われ、「アイヌ民族」などを意味する古いアイヌ語と武四郎が
とらえていた「カイ」を入れた「北加伊道(ほっかいどう)」案などを提案。
明治2年(69年)、新名称は「北海道」になり、石狩、札幌、夕張などの国郡名案が採用された。
ただ、アイヌの扱いは変わらず、失望してほどなく職を辞す。
結局、武四郎は6回の踏査以降、蝦夷地を踏んでいない。理由は謎だ。
命名150年目にあたる今年、大地震が北海道を襲った。
まだ行方は予断を許さない。
落ち着きが見えた頃、若き武四郎がどんな思いでこの地を巡ったのか足跡をたどるのもいい。(辻本芳孝)
人気の出版物 編集者の才覚も…三浦泰之・北海道博物館学芸主幹
武四郎は、生涯で約80件の地図や紀行文を出版し、うち45件ほどが蝦夷地に関するもの。
それらは「多気志楼物(たけしろうもの)」として江戸、大坂、京都で大流行しました。
ロシアに対する国防が課題となり、幕府が蝦夷地に注目していた時代。
どんなところで、どんな人がいたのかを庶民は知らなかったので、社会的にも関心が高かったようです。
海岸線を1周できるすごろくなども出版しています。
書き手や画家としても優れていますが、下絵を本人が描いたうえで、
有名だった画家に挿絵を、漢詩人や歌人に挿絵に添える漢詩や和歌を依頼し、読み物として質を上げていました。
編集者としての才覚もあったようです。
「西蝦夷日誌 四編」は、明治政府の役人を辞職した後の出版。
実際に積丹に行った直後も松前藩に不満でしたが、当時の著書にはこの批判の言葉はありません。
新たな出版で劇的にしたのでしょう。
ただ国防上、アイヌの窮状を懸念しており、他の著書も含め、松前藩について悪く書きすぎる傾向も。
自ら出稼ぎに行ったアイヌを「無理やり連れられた」などと記した例もあり、注意が必要です。
西蝦夷日誌(にしえぞにっし)
武四郎が踏査した北海道西部の地形や土地の特徴、
居住するアイヌの数などの記録を地図や風景画とともにまとめた紀行文。
嘉永2年(1849年)の3回目の蝦夷地踏査後に書いた「蝦夷日誌」(計35巻)などを再構成した。
慶応元年(1865年)から明治5年(72年)にかけ、
地域ごとに「初編」から「六編」までを順次刊行。
「四編」で積丹から古平、余市、小樽までを記した。
同時期に「東蝦夷日誌」(計7編)なども出版している。
◆「西蝦夷日誌」とその時代
1808年 間宮林蔵、樺太調査
25年 異国船打払令
40年 アヘン戦争始まる
53年 クリミア戦争始まる
ペリー来航
露軍人プチャーチン来航
60年 桜田門外の変
67年 大政奉還
68年 戊辰戦争始まる
69年 開拓使設置
【アクセス】新千歳空港からJRで小樽駅まで約1時間20分。神威岬まで車で約1時間20分。
公共交通機関は、夏期のみ同駅から同岬までバスが運行する。・・》
このように一部写真付き(このコメント欄は残念ながら写真、不可)で掲載されていました。
貴兄が松浦武四郎氏に関して、蝦夷の探検で、アイヌ、幕府に綴られていましたことを
私は思い馳せたりしながら、今回改めて学んだ次第です。
詳細に読ませていただきましたが、大変参考になりました。
松浦武四郎については、道内を探検する際に、いつも土地を良く知るアイヌ民族の方を従者として同行させていたことから、アイヌに思いを寄せるようになって一面があったと思われますが、同時に武四郎の人間観が反映したともいえそうです。
先日もある講演会で、武四郎著の古文書を読み解く講演会がありましたが、アイヌに対する酷い仕打ちに言及する文書についてのお話を聴く機会がありました。
また、コメントの文中に表記されている北海道博物館の三浦学芸員のお話もこれまで何度か伺う機会がありましたが、アイヌのことをはじめ、北海道の古代研究の第一人者です。実は、私たちが主催する「さっぽろの古を訪ねて」の第一回目の講師も三浦学芸員にお願いしました。
一つだけ松浦武四郎について、今現在も良く分かっていないことがあります。それは、松浦武四郎は毀誉褒貶の激しかった人、という人物評を聴くことがあります。この点について私はまだよく理解できておりません。
これは夢逢人さんに聞くのではなく、私自身がこれから追究していくべき課題ですね。
貴重な資料の提供ありがとうございました!