北区には開拓の歴史と伝統を持つ開拓碑や文学碑、古い建築物など文化遺産が数多く存在しているという。それら文化遺産を北区が独自に88ヵ所を選定し、「北区歴史と文化の八十八選」として指定したという。これらの文化遺産を巡ってみようと思い立った。
過日、北区の新しいウォーキングコースを踏破した際に、沿道にある文化遺産も併せてレポートしたが、どうも底が浅い感じがして満足できなかった。そこでウォーキングとは別に八十八選に絞って巡り歩いてレポートしてみようと考えた。八十八か所を一回当たり8ヵ所として都合11回に分けてレポートしてみようと考えていたのだが、いざ作成してみると、8ヵ所となるとボリュームが大きすぎる。長いシリーズとなってしまいそうだが、一回に4ヵ所ずつレポすることにしたい。なお、〈 〉内の数字は北区が指定した順に準拠したものである。
〈1〉有島武郎邸跡
※ 「有島武郎邸跡」碑は、写真のようなミニ公園風のところに建てられていた。自転車の右側がその碑です。
有島邸跡は北12条西3丁目のビル街の角地に小公園のように造られたところに彼の胸像が立てられていた。その脇には有島武郎の業績を著す説明板が立てられていた。しかし、雨風のため判読が困難となっていたので、北区の担当者にお願いして本文を送付していただいた。その説明文が以下のものである。
※ 北区制作の説明板は雨風のために滲んでしまい一部が判読不能でした。
「『カインの末裔』、『生まれ出ずる悩み』などの作品で知られる文豪・有島武郎(1878-1923年)は、札幌農学校を卒業後、外国留学を終えて明治41年(1908年)、再び札幌の地を踏み母校である北大で英語を教えるかたわら本格的な文筆活動を開始した。この家は、大正2年(1913年)8月、札幌永住を決意して新築したもので、大正3年(1914年)11月に妻・安子の病気療養のためこの地を去るまで過ごした。マンサード屋根を持った洋風の家は有島自身の設計といわれ、ここはその家があった場所である。」
※ 有島武郎の顔像と、その下に有島安子(妻)遺稿集の一部分が表示されていました。
※ 有島武郎の顔像をアップしてみました。
後年、この家は森雅之(有島の長男行光)主演映画「白痴」(監督黒澤明、昭和26年)のロケにも使用され、現在は、札幌芸術の森に移築・保存されている。
碑文は安子夫人の死後、有島がまとめた有島安子遺稿集「松むし」から取った日記の一節である。有島は、あるとき、「細君というものはこんなにいいものならなぜもっと早く貰わなかったと君は思ったかい。」と友人に尋ねられ、「そりゃいい事もあり悪い事もありさ」と答えて笑った。これを聞いていた安子夫人は恥ずかしさと悲しさで泣きたくなり、「細君とはなかなかいいものさ。早く結婚したまえ」と夫に言われるような妻になろうと思ったという。」
なお、有島武郎邸は大正2(1913)年に建てられ、有島自身は妻が病死したこともあり約1年間しか居住しなかったようである。その後は北大職員寮や学生寮として利用されていたが、昭和58(1983)年に廃されて、昭和60(1985)年札幌市芸術の森の敷地内に移築され現在に至っている。私はこの建物も現地へ行って写真に収めてきた。内部は冬季間の閉鎖期間だったために見学はできなかった。(訪問日4月17日)
※ 札幌市芸術の森の敷地に移築された有島武郎邸です。下は邸宅の裏側です。
〔住 所〕 北区北12条西3丁目
〔訪問日〕 4月19日
〈2〉旧札幌中学校「発祥の地」碑
旧札幌中学校「発祥の地」碑は「有島武郎邸跡」からも望める道路向かいにあった。こちらは本当にビルに囲まれた隙間に立てられていた。傍にあった説明板の方は写真が掲示されているだけだったが、碑の土台のところに碑文が刻まれていた。それをメモしてきたので転写する。
※ 碑の台座のところに、碑建立の経緯が記されていたので懸命に書き写しました。
「この地は明治28年(1895)4月 札幌尋常中学校誕生の地で, その後 札幌中学校, 北海道庁立札幌中学校, 同札幌第一中学校と改称され, 大正11年 (1522)7月南18条西6丁目に移転 するまで3000余名が質実剛健 堅忍不抜の精神に鍛えられ, 各界に雄飛し社会に貢献した。
よって母校を偲び320余名の同窓生 有志が, 篤志者および藻岩会の 後援によりこの記念碑を建立した 昭和58年(1983)9月17日」
※ なお、原文の方は縦書きのため年数などは漢数字であるが横書きのために算用数字に変えてあります。
※ 石碑の足元の歩道には写真のような化粧タイルが埋め込まれていました。
碑文にあるように大正11年には、現在地から現在北海道南高等学校がある地に移転したようであるが、諸事情があったとはいえ地域住民にとっては残念な出来事だったのではないだろうか?
※ 道路向かいから石碑を撮りましたが、ビルの隙間にひっそりと立っています。写真の真ん中です。
〔住 所〕 北区北11条西3丁目
〔訪問日〕 4月19日
〈3〉石川啄木下宿跡
啄木の下宿跡は、札幌駅の直ぐ北側のビルの一角にその碑は啄木の胸像と共にあった。まるで当時の面影の残っていないビルのエントランスにそれはひっそりと立っていた。北区が作成した説明板には次のように書かれていた。
※ 「札幌クレストビル」というビルの右手前のところに石川啄木の胸像が置かれていました。
※ 写真のようにひっそりと置かれていました。
「詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、明治40年(1907年)9月14日のことである。札幌停車場に午後1時すぎに到着した啄木は、詩友・向井夷希微(いびき)らに迎えられ、彼らの宿でもあった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。ときに満21歳。ここはその下宿があった場所である。滞在2週間であわただしく札幌を去るが勤め先の北門新報に「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり」の印象記を残し、またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。」
※ 北区制作の説明板です。
また、啄木の胸像の下には「秋風記」と題する上記の北門新報に寄せた一文が碑に刻まれていた。それを写すと…。
※ こちらは胸像の下に展示されていた「秋風記」の一節です。
「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見る我が喜びは何にかに例えむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市(まち)なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうな郷(さと)なり、詩人の住むべき都会なり。」
啄木が札幌に滞在したのは9月後半わずか2週間である。北国札幌は初秋の冷たい秋風が吹く頃だったようだ。もし、啄木が札幌の街がもっとも輝く6月に訪れていたとしたら、彼は札幌の街をどう描いただろうか?興味がある果たせぬ夢である。
※ 啄木の胸像の裏側から撮りました。啄木が街を行く人たちを眺めている図です。
〔住 所〕 北区北7条西4丁目
〔訪問日〕 4月19日
〈4〉朔風
「朔風」とは碑文によると1980(昭和55)年、北海道自治労会館の竣工を記念して建立された彫刻である。作者は札幌在住の彫刻家・本田明である。「朔風」はちょうど自治労会館の横の三角形の空き地(?)のところに立っていた。北区の説明板はここだけ立派なステンレス版になっていた。そこには次のように書かれていた。
※ こちらの説明板は何故かステンレス製でした。
「厳しい北海道の北風に向かいながら、たくましく前進を続けるエネルギーとくじけることを知らない強固な勇気と気迫を表現。」とあった。
※ 高い台座の上に身長173cmの女性の像が立っています。
※ 裏面から撮ったものです。
〔住 所〕 北区北6条西7丁目自治労会館横
〔訪問日〕 4月19日