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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌市資料館講座「薄野遊郭顛末記」

2024-08-03 13:52:04 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌の初期の発展を陰で支えた(?)「薄野遊郭」のお話を聴くという貴重な機会を得た。ある意味でそれは札幌の裏面史なのかもしれないが、なかなかこの種の話は聴くことのできないだけに貴重な機会となった。

 7月31日(水)午後、札幌市資料館講座の一環として「薄野遊郭顛末記」と題して民衆史研究家として活動する石川圭子さんが講師を務める講座を聴くことができた。

       

 資料館講座はいつも大変人気が高く、受講を申し込んでも抽選を通らないと参加できないという狭き関門なのである。今回は運良く参加することができた。
 「薄野遊郭」は、第2代の開拓判官(後に開拓大判官)だった岩井通俊が、札幌開拓を担った土木作業員や開拓に携わる男たちの士気を高めるために遊郭を設置した、ということは以前から聞いていた話だったが、詳しいことは未知だった。
 「薄野遊郭」は明治4年8月30日に官許(政府の許可)が下り、現在の南4条と南5条の西3~4丁目の4区画に四尺ほどの高さの土塁を築いて、その中に7軒の妓楼が営業を開始したのが始まりとされている。ところが、開業した妓楼は掘立小屋同然の粗末の建物で、その中には薄汚れた銘仙のような着物を着た遊女たちが雑魚寝をする状態だったのを見た岩井通俊は翌年、政府高官を接待するための妓楼「東京楼」を官費で建て、遊女たちを東京から呼び寄せたそうだ。
     ※ 矢印( ↓ )の延長線の道路が現在の札幌駅前通です。
               
     

 ちなみに、石川氏は「花街用語」という言葉を紹介してくれた。それによると…、
 ◇遊郭(ゆうかく)~公許の女郎屋を集め、堀や塀で囲った区画のこと。
 ◇妓楼(ぎろう)~遊女を置いて、客と遊ばせることを商売とする店。
 ◇楼主(ろうしゅ)~楼と称する家の主人。
 ◇遊女(ゆうじょ)~遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性。
 ◇芸者(げいしゃ)~歌舞・音曲を行って酒宴の席に興を添えることを職業とする女性。
 ◇花魁(おいらん)~吉原遊郭の遊女で、位の高い者。
 ◇禿(かむろ)~遊女見習いの幼女を指す。
 その後、薄野遊郭は幾多の変遷を重ねながらも継続されたが、1987(大正7)年に開道50周年を迎えるにあたり、主会場が中島公園になることから移転を求める声が高まり、大正7~9年にかけて白石村に移設され、薄野遊郭は終焉を迎えた。
 なお、白石村の遊郭はその後1958(昭和33)年の売春防止法の施行まで続いたが、同年に遊郭全体が廃業となったという。
 石川氏のお話によると、薄野遊郭は明治4年に開業したものの、翌明治5年には横浜港に停泊中のマリア・ルス号の清国人や苦力が奴隷だとして日本政府が解放したことを契機に、「芸娼妓解放令」が通達されたことから、遊女たちが妓楼から解放されることとなったそうである。しかし、通達は出されたものの内実は業者によって骨抜き状態で薄野遊郭はそれ以降も繁栄を誇り、最盛期の明治40年頃には遊郭が32軒、そこで働く遊女たちは372人にものぼったという。
    
    ※ 明治4年当時の「薄野遊郭」が誕生したころの薄野を写す貴重な写真です。
     
 石井氏のお話の中には出てこなかったが、札幌の街中を流れる豊平川の上流には「おいらん渕」と呼ばれる崖がある。そこは吉原から身請けされてきた花魁が話と違う余りの寂しさに世をはかなみ着飾って身を投じたという話が伝わっており「おいらん渕」と呼ばれるようになったと云われていることを私は思い出していた。
 現在の札幌の繁栄を陰で支え続けた「薄野遊郭」の存在とそこに隠された遊女たちの哀しみを改めて知る機会を得た講演会だった。


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