ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

日本経済新聞紙の「盛衰の岐路 続いた誤算 日米協定発効」を拝読しました

2014年01月14日 | 日記
 2014年1月12日に発行された日本経済新聞紙朝刊の中面に掲載された「シリーズ検証 半導体興亡史」の第二回目の「盛衰の岐路 続いた誤算 86年日米協定発効」を拝読しました。「日曜日に考える」欄のコラムの一つです。

 今回のシリーズ第二弾は当時、半導体で世界首位のNEC(日本電気)の話です。先週の第一回目は日立製作所の半導体事業部の苦悩でした。

 日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版では、見出し「盛衰の岐路 続いた誤算 86年日米協定発効 NECに覇者の奢り」として掲載されています。



 第二番弾の今回は、日本企業の半導体事業が頂点を極め、“覇者の奢り”から事業衰退を招いた歴史を解説しています。

 1986年に締結された日米半導体協定は、現時点で再考すると、「日米半導体協定の実像は、当時世界ナンバーワンとナンバーツーの日米による国同士の官製談合」だった。これによって、当時の半導体の主力製品だった半導体メモリー(DRAM)は、日米半導体協定によって、日本が輸出量を減らし、輸入量を増やすという数値目標によって、半導体の国際市場が安定した結果、日本企業の半導体事業は好成績を続けました。

 この事業好調は「日本企業の半導体事業での技術開発の成長を遅くした」と指摘します。日本企業が半導体技術の研究開発の手を緩めた結果、「韓国や台湾の半導体メーカーの研究開発力を高める事態を招いた」と、分析します。

 10年後の1996年7月に、日米半導体協定が失効したことによって、実力を高めた韓国のサムソン電子、SKハイニックス、台湾の台湾積体電路製造(TSMC)などが高品質で低価格という半導体製品を供給し、グローバル市場で実力を発揮します。

 米国も、製品を半導体メモリーからCPU(中央演算処理装置)に切り替えたインテル(INTEL)がグローバル市場で復活するなど、勢いを取り戻します。

 結局、目の前の半導体事業の甘い汁を知った日本の半導体企業が油断し、後塵を拝する事態に陥っていました。油断大敵です。

 1990年代後半から、日本企業の半導体事業は巨大赤字に陥り、その対応に追われます。半導体メモリー事業では、2003年4月に、日立製作所と三菱電機が半導体事業を分社化し合弁によるルネサステクノロジを発足させ、さらに、2010年4月には、NECエレクトロニクスとも合弁した、現行のルネサスエレクトロニクス(川崎市)が発足します。

 日立製作所と三菱電機が半導体事業を分社化し合弁によるルネサステクノロジを発足させる当時は、当初は工場を持たない「ファブレス」企業として創業させる計画があったが、実現できなかったと、当時の新会社創業の裏話を明らかにします。その一方で、台湾のTSMCのような、“日の丸”大型ファウンドリーを日本企業を統合してつくる案もあったと明かします。

 結局、1986年当時の日本企業の“覇者の奢り”による日本企業の「一国一城」という信仰が、2000年代の半導体事業の再編に、間違った判断を招く起点になっていると分析します。日本企業の「一国一城」という信仰は、実は液晶パネル事業でも事業戦略を間違えさせる結果を招きます。

 日本の半導体事業は「“何をつくって、どこに売るか”というビジネスの基本を考える事業戦略ができていなかった」という指摘は、現在でも重い指摘です。この課題を解決することが、今後の日本の成長戦略の成果を決めます。