まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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ポーランド王ボレスワフ2世妃 ヴィシュズワヴァ

2013-02-23 00:52:25 | ポーランド王妃
まだまだ謎の王妃は続くのか・・・
ボレスワフ2世妃 ヴィシュズワヴァ・シュヴィアトスワヴヴナ


1047~1089/在位 1076~1079

王の資質高し!と言われながら冷酷すぎたために廃位されたボレスワフ2世…
政治ってわかりませんね。
群雄割拠の中世初期は程度の差こそあれ暴君ぞろいだったと思うんですけど
国を強く牽引できそうな人が辞めさせられるなんて。
王座に長くとどまれるかどうかは、資質というより運とタイミングだね。

        
そんなボレスワフの妃だと長らく言われていたのは
キエフ大公スヴィワトスワフ2世の王女ヴィシュズワヴァです。

結婚した年ははっきりしていませんが、1069年に唯一の嫡子ミェシュコが誕生してるので
その前でしょう、ということです。

1076年のクリスマスにボレスワフと戴冠したとされています。
しかし前述の通りボレスワフ2世は3年後に廃位されまして
一家三人はハンガリーに追放されました。

追放から2年後にボレスワフが急死します。 毒らしい… 中世ですな。
復位を恐れたポーランドサイド、持て余したハンガリーサイド、どちらの仕業でしょうね?

1086年、毎度廃位された王の息子がそうするように
ミェシュコも王座奪還のためにポーランドに戻りました。
ヴィシュズワヴァも同行しています。

ポーランドに戻って3年後、今度は息子がとっても影響力のある宮中伯によって毒殺されます。
親子揃って…食べ物に気をつけなきゃダメじゃない。
ヴィシュズワヴァは息子の葬儀に参列したようですが、これ以降の記録がありません。

ボレスワフ2世の墓所も不明なのですが、ヴィシュズワヴァも不明です。
息子が王になっていたら立派なお墓があったかもしれないですね。

ところで、ここまでヴィシュズワヴァのことを書いてきて元も子もないのですが
近年の歴史家たちはボレスワフ2世妃がヴィシュズワヴァという説に否定的で
プシェミスル家のアーグネシュが王妃では? と唱えているそうです。

あらら、今さらそう言われましても…
もったいない気がするのでこのまま載せときますけどね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
先週、今週とBIGBANGのテソンを日本のテレビで見られて嬉しい反面、歌を聴かせてほしいの…って思うの。
そんなわけで、出演予定となっている今日の Music Fair と明日の Music Japan が楽しみです。
コメント (3)
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