学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学級経営に悩んだら

2010-06-22 | 教育
若いときは,
自分が担任するクラスの子どもたちに好かれているのか,
嫌われているのかがずいぶんと気にかかるものである。

やはり,教師になったからには,
子どもたちに好かれたい,
いい先生と呼ばれたいという思いをもつのが
人情である。

しかし,クラスが思うように運営できない場合,
子どもたちに好かれたいという気持ちが強いと,
上手くいかず,悩みもまた深くなる。

私が昔,確か何かの本で読んだはずなのに,
どの本であったか,とんと思い出せないのだが,
クラスを担任するときに,
いつも心に留めている言葉がある。
それは,次のような趣旨の言葉である。

 クラスの半分の子どもはあなたのことが嫌いです。
 残りの子どものうちの半分の子どもは,
 あなたのことが好きです。
 そして,残りの半分の子どもは,
 あなたのことをなんとも思っていません。
 それぐらいが普通です。

この言葉を聞いて,
ずいぶんと気が楽になったことを
思い出した。

もちろん,教師の側からは,
子どもたちを嫌うなどということはあり得ない。
そもそも教師にとって,
担任する子どもたちは,
好き嫌いの対象ではないのである。

そこもはきちがえてはいけない,
大事なところである。


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3 Comments

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またまた… (1中学教師)
2010-06-26 11:55:03
2回目の投稿です。
またまた偶然です。

先日、若い教師に言ったところです。
私もどこでどう知ったのか、もう定かではありませんが…

私の頭には、3分の1ずつでした。
クラスの3分の1の生徒には好かれ、3分の1の生徒には嫌われ、残りの生徒は何とも思ってない、というものです。
若い先生にそれを話したのですが、もう少し反応があると想像していたのですが、なんか今一つでした。
「子どもたちは好き嫌いの対象ではない」というのはほんとに大事なところです。
これからは、それもつけ加えていきたいと思います。

でも、全部に好かれたいですね。
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Unknown (madographos)
2010-06-27 16:34:04
>1中学教師様。コメントありがとうございます。数の比率はあやふやなので,3分の1ずつだったかもしれません。生徒に好かれたいという気持ちは,教師の原動力でもあり,また足かせでもありますね。難しいところです。若い先生にはピンとこないというのは,やはり我々の頃とは感覚が違うということなのでしょうね。
返信する
若者の悩みは普通 (tsuguo-kodera)
2015-11-09 04:39:32
 管理人様にも学級経営で悩んだ時代があったのですか。意外でした。だって人の心は分からない、子供すら。いわんや他人の子供など、その親など、はたまた他の先生など、校長など、その心は分からない。むしろ上司などキチガイと思うべきでは。分からないから面白いのでは。
 比率ですが、一人一人の心の中にそのようなある人に対する好き嫌いの感情が潜んでいるのでは。自分ではコントロールできないのが心でしょう。好きも嫌いも、増えたり減ったりでは。40年来の仲の良い夫婦の間でもです。
 大恋愛と思っているその恋人も間違えば憎むことになるし、そんな話は小説にいくらでもあります。嫌いな部下に助けられることもあるし、先生も一人の悩める人間であるし、至らない程度であれば上等でしょう。
 私は叔父と父の酒の席で叔父に御酌をするのが大好きでした。学園の偉そうな先生方の過去の行状を叔父が面白おかしく話していたからです。3人がそれぞれの立場ですべての先生を腐していたのです。中高だけでなく、東大教授すらです。
 だから私は高校まで、いいえその延長で大学と会社と今の高校で、先生や上司の至らない点を見つけるのが得意でしたし、今も好きです。校長など先生の成れの果て、いいえ劣等生のなれの果て。父兄もでしょう。そう思えば腹も立たないで淡々と教えられます。
 私は相手の個性を見抜く鍛錬を子供の時からしていたと今になって良く分かりました。それが商品企画だろうとシステム設計だろうと、大学や高校や会社の教育だろうと、担当業務が好きになり、他人様より少しはましにできている理由だと思っています。もちろん私の考え方が正しいかどうかは分かりませんが、関係ありません。結果が全て、これがビジネスマンの誇りです。
 すなわち、学校の先生や担任の仕事など、人も見ぬく目を養いたいと思い、日々悪戦苦闘していれば簡単にできると考えてしまいました。
 だって会社には教科書はありません。事業方針だけです。課題だけです。システムは会社の事業のためにあり、多様な社員がすべき教科書などないからです。接客マニュアルなど非正規社員のためにあるようなものです。
 結果がすべてになり、好き嫌いや努力や能力など二の次で評価されてしまいます。しかも評価は訳も知らない人事関係部門が下すことになり、真の評価も教えてもらえず、曖昧模糊とした人間関係や顧客関係で飛ばされたり、させられたり、替えられたりしてしまいます。世界中、日本の僻地にも飛ばされてしまいます。
 恵まれた学校の若い先生が悩むのは普通ですが、それは初恋と同じ、麻疹と同じ。大学を卒業するまでに経験し耐性を付けるべきものでしょう。耐性がないだけです。
 若い人は、先生も環境が良すぎて悪い状況を恐れているだけかも。学校は恵まれているから耐性が付きにくいだけです。酷い状況ほど勉強になると思えば私のように今の学校でも楽しく教えられるはずです。
 酷いほど面白いのです。南無阿弥陀仏と言えばすむからです。むしろ、教職にも親鸞や法然や弘法大師や陽明学の教えを取り入れるべきだと言うのが私の人生の結論になりました。
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