学校教育の機能は,
知識伝達において最も効果的であり,
その活用に熟達させることには向いていない。
なぜなら,
学校で知識を得て,
社会に出て,その活用の仕方を学ぶように
仕組まれているからである。
したがって,学校で学んだ種々雑多な知識のなかで,
自分の社会生活に必要な知識だけを取り出して,
社会の中で活用できるようになっていくというのが
本筋であろう。
活用の仕方の学習までも学校が担うことは
おそらく不可能である。
したがって,
先の学力テストの結果が示すように,
「知識」においては一定の成果が上がっているが,
「活用」についてははかばかしくないというのは,
むしろ当然のことである。
また,話題は変わるが,
同一年齢の全国民の学力分布というものを想定した場合,
時代による差異はほとんどないのではないかと思われる。
もしあるとすれば,
特定の分野の知識を得るための学習機会が,
その世代が学校に通った時代に,
あったかなかったかということに左右されるであろう。
さらに,
大学・短大進学率が,10パーセント台の昭和30年代と,
40パーセント台の昭和50年代,
そして,50パーセントを超えた現在とでは,
大学・短大において学力低下が起るのは,
その比率からいって必然的である。
むしろ,昭和30年代の高校進学者のレベルと,
現在の大学・短大進学者のレベルのほうが,
近いのである。
同じことが,高校についても言えるであろう。
義務教育学校においては,
就学が義務付けられているので,
義務教育における学力低下は,
学校教育の責任のように思われがちである。
しかしながら,上述のように,
学習機会を与えたか与えなかったかは,
学校の責任範囲ではないのである。
むしろ,教育行政やその時々の国の状況の問題である。
ところで,
学力低下論は時の教育政策を批判する目的をもって
語られることが多いというのが真相であろう。
とくにいわゆる戦後の初期社会科批判や,
ゆとり教育批判がそれである。
逆に学力低下論が行きすぎ,
学習量が過密になってくると,
詰め込み教育や暗記主義が批判される。
詰め込み教育批判や暗記主義批判もまた
学力低下論と同じく,
教育政策を批判するための論に過ぎず,
その実質がきちんと検証されているわけではない。
要は,政治的立場の違いとでもいったようなものである。
気をつけなければいけないのは,
学校教育論は,
常に政策的意図をもった
風評によって左右されているということである。
巨額の資金を投じて
全国学力テストをやってみても,
当たり前のような結果しか出ないのは,
このことを如実に示していると思うのだが。
知識伝達において最も効果的であり,
その活用に熟達させることには向いていない。
なぜなら,
学校で知識を得て,
社会に出て,その活用の仕方を学ぶように
仕組まれているからである。
したがって,学校で学んだ種々雑多な知識のなかで,
自分の社会生活に必要な知識だけを取り出して,
社会の中で活用できるようになっていくというのが
本筋であろう。
活用の仕方の学習までも学校が担うことは
おそらく不可能である。
したがって,
先の学力テストの結果が示すように,
「知識」においては一定の成果が上がっているが,
「活用」についてははかばかしくないというのは,
むしろ当然のことである。
また,話題は変わるが,
同一年齢の全国民の学力分布というものを想定した場合,
時代による差異はほとんどないのではないかと思われる。
もしあるとすれば,
特定の分野の知識を得るための学習機会が,
その世代が学校に通った時代に,
あったかなかったかということに左右されるであろう。
さらに,
大学・短大進学率が,10パーセント台の昭和30年代と,
40パーセント台の昭和50年代,
そして,50パーセントを超えた現在とでは,
大学・短大において学力低下が起るのは,
その比率からいって必然的である。
むしろ,昭和30年代の高校進学者のレベルと,
現在の大学・短大進学者のレベルのほうが,
近いのである。
同じことが,高校についても言えるであろう。
義務教育学校においては,
就学が義務付けられているので,
義務教育における学力低下は,
学校教育の責任のように思われがちである。
しかしながら,上述のように,
学習機会を与えたか与えなかったかは,
学校の責任範囲ではないのである。
むしろ,教育行政やその時々の国の状況の問題である。
ところで,
学力低下論は時の教育政策を批判する目的をもって
語られることが多いというのが真相であろう。
とくにいわゆる戦後の初期社会科批判や,
ゆとり教育批判がそれである。
逆に学力低下論が行きすぎ,
学習量が過密になってくると,
詰め込み教育や暗記主義が批判される。
詰め込み教育批判や暗記主義批判もまた
学力低下論と同じく,
教育政策を批判するための論に過ぎず,
その実質がきちんと検証されているわけではない。
要は,政治的立場の違いとでもいったようなものである。
気をつけなければいけないのは,
学校教育論は,
常に政策的意図をもった
風評によって左右されているということである。
巨額の資金を投じて
全国学力テストをやってみても,
当たり前のような結果しか出ないのは,
このことを如実に示していると思うのだが。
「サイン、コサイン、英単語、文法、社会に出て必要のないものかもしれませんが、今勉強していることは‘‘地下水‘‘です。
いつか役に立つのです。
教育ってそんなもんじゃないのかなぁ~
文部科学省が指導要領を改訂し、授業時数を元のように戻すことを決めましたね。
現在高校3年から中学1年生までの学力低下政策の影響をもろに受けた世代に、文部科学省はなんと言うのでしょうか。
ああ、公立学校は学力をつける必要ないんでしたね。
昭和32年の全日制高校生の11%が水の分子式を書けなかったそうです。
出典:サンケイ(今の産経新聞) 大阪版 昭和32年(1957年)12月22日