学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学級崩壊の原因 ひとつの可能性

2010-12-02 | 教育
学級崩壊の原因として,
ひとつの可能性とふと思いついた。

これは単なる思いつきであることを
あらかじめお断りしておく。

学級集団が崩壊する原因として,
よく教師の指導力などが問題にされるが,
実は,学級集団というものは,
教師がいなくても大きくは崩れないように
従来組織化されているものであった。

つまり,従来の学校では,
学級委員(長)を中心とする各委員,
班長,班員というように,
一種のヒエラルキー構造が学級の中に明示的に
形成されている(させられている)のが普通であった。
一種の擬似社会構造をもっていたのである。

そのような学級では,
その社会構造を健全に機能させる仕掛けを
上手につくっておきさえすれば,
まがりなりにも,教師不在であっても,
学級の秩序を維持しようとする力が自然に働くものである。
つまり,教師なしに秩序維持できる可能性があるのである。
このような集団の掌握は学級担任にとっては比較的容易である。

しかしながら,最近の学級では,
学級委員(長)を定めない場合も多いようである。
つまり,学校から任命されたという権限あるいは権威を明示された
リーダーがおらず,組織構造も明示されないのである。
そのような集団の秩序を維持する権能は,
学級担任ひとりに任されていることになる。
教師一人の力ではどうしようもない状態に陥るというのは,
けだし当然であろう。

最近の子どもたちは集団づくりができないという議論をよく耳にするが,
それは,もしかしたら,当たり前なのではないか。
未熟な子どもたちに,リーダーもない集団の中で,
秩序だった学級集団を形成せよというのは,
ほとんど不可能なことを子どもに要求しているのに等しい。
(大人でもその成因が固定されているような共同体で,
 制度的にリーダーや役割を決めるような社会制度や相互了解がない限り,
 共同体を共同体として維持することは困難であろう)

学級の中に固定されたリーダーや組織構造を積極的に形成することを
忌避させるようになってきたそのユートピア的な教育観・学校観に
そもそも無理があったということに気づくべきではないだろうか。


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8 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
リーダーとフォロワー (yo)
2010-12-03 06:10:54
おっしゃっていることはよくわかる気がします。

この場合、例えば、集団作りにおいて、「リーダーづくり」を中心の一つにおいている全生研の実践には多くを学ぶ事ができるのではないかと思います。

でも、実際的には、その理論や技術が広まらないというところにも、「集団づくり」のみならず、学校教育的な、あるいは社会的な課題があるように、私は思えてなりません。

私は、
>ユートピア的な教育観・学校観にそもそも無理があった
とおっしゃる部分の主体が少し不明瞭な点が気になります。

「集団づくり」に関わる理論や実践は、階級闘争的な部分を根に持つ可能性があって、教育を管理する側であるほど忌避されていると私は思っています。
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Unknown (madographos)
2010-12-04 09:02:14
>yo様。貴重なコメントありがとうございます。「ユートピア」的というのは,かつての全生研的なユートピアという意味ではなく,現在の個人重視の新自由主義的発送にもかかわらず,教師の指導力で学級がまとまるかのように考えている考え方を「ユートピア」と表現しました。まぎらわしかったですね。個人的には,イデオロギーにとらわれず現場からの教育改善の方法として有効な方策は学ぶべきだと思っています。
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Unknown (madographos)
2010-12-04 09:04:52
訂正です。前のコメント

発送→発想

です。
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私の方こそ言い回しが・・・ (yo)
2010-12-04 21:43:37
私も全生研的なユートピアを、例えばという言い回しで対向として用いました。

madographosさんが、ここで忌避されている対象は「教師の指導力で学級がまとまる=ユートピア的発想」ですね。

私はその原因の一つとして、全生研的なものを避けて来たことにもあると思っています。

>個人的には,イデオロギーにとらわれず現場からの教育改善の方法として有効な方策は学ぶべきだと思っています。

現場には未だに闘争的な立場を崩さない状況があります。
これもまた闘争的な言い回しですが、「官」側が懐の広さを見せない限り、かなりの困難があるなと思います。
学ぼうにも学べない、あるいは学んでも活かせない現状もあるというのが、私の現実ですね。
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Unknown (madographos)
2010-12-05 16:56:33
>yo様。コメントありがとうございます。学校崩壊の場合,秩序を回復するという目的は,闘争的な立場を維持するよりも,はるかに大切だと思いますが,なかなかうまくいきませんね。
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別な可能性 (Soba)
2010-12-13 15:39:52
子ども同士のヒエラルキーを発生させ、秩序維持を担わせること。危険な面を持っていると思います。
中学で、学級委員に任命されて、クラスのとりまとめを先生に仰せつかり、クラスと先生の板挟みになって苦しみ、不登校にいたったケースにいくつか接しました。
先生が無責任な聖域に置かれ、汚れ役を生徒が担うことになります。
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Unknown (maddographos)
2010-12-17 00:27:45
>soba様。コメントありがとうございます。おっしゃておられる「危険な面」とは,すなわち,社会の秩序維持機能そのもののもつ「危険な面」でしかあり得ないと思います。秩序崩壊による危険よりは,はるかに制御しやすいものです。
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バトルロイヤルから文武両道へ (tsuguo-kodera)
2015-12-05 18:50:30
 論旨賛同です。でも私には持論がありますし、持論は経験から生まれています。
 私の高校の非常勤経験でも、いつも教室はバトルロイヤルのようでした。誰が誰に文句を言うのか、池に落ちた犬を打つのか予測できませんでした。
 隙を見せた人を、うるさ型の生徒が徒党を組んで罵倒する、スキを見せたら叩かれるのです。恐れているのは自習室送りになることだけでした。単に目立つように騒ぎたいのです。男女が混ざると特に激しさが増すようです。
 もし教師がそのような状況を鎮めようと介入すると、今度は一致団結し教師に立ち向かう。一時停戦するのです。それが教室における生徒個人が存在感を高めるためだと私は考えていました。
 だから教室に正しいヒエラルキー構造などできはしないでしょう。バトルロイヤルだからです。馬場も猪木も強いから最初に狙われるのでし。
 生徒の自治活動も付和雷同の延長線になり、生徒会の自治など絵に描いた餅にならざるを得ないのでは。
 生徒会委員やクラス委員は自分に箔をつけ、学校推薦の勲章にするためになるし、担任もそのようにそそぬかし、生徒があたかも自発的に立候補したように仕向けているのでは。自治や自然のヒエラルキーなどあるはずがありません。
 私の初等科時代はヒエラルキーが明確でした。運動会はだれだれ、野球なら誰、勉強ならだれだれ、クラス委員ならだれだれと分野で決まっていたように覚えています。個性尊重だったからです。
 中学では、勉強のできる人は発言力をまし、余程の運動音痴でない限り、自治会活動を牽引していたように思っていました。生徒の自治を大事にしている学校だったからでしょう。
 さてそこで全くの仮説ですが、今の時代にカリスマ性のある子供が現れるかです。条件はいくつかあるでしょうが、必要条件なら私はあげられます。正しいかどうかは分かりません。最初にお断りしたように単なる持論です。

・冗談もいえコミュニケーション力がある
・勉強はクラスで5本の指に入る
・ある教科でトップになったことがある
・運動神経が高く何かの部活の名選手である

 以上の要求条件をアンドですべて満たす人がいないとクラスはなかなかまとまらないのでは。一言で言えば文武両道の明るい生徒さんが必要なのかも。
 結論です。学校が文と武を分けず、すべての生徒さんに文武両道を求めたら可能性は高まるでしょう。障害者ならパラリンピックを勧めたらいいのです。時代の流れに乗る、商品企画のいい加減さが役立つかも。
 障害もハンデも特徴にでき、あまり好きではない、総理の一億活躍社会を目指すスローガンを悪用してしまう。できそうな気がします。もちろん実践ないので全くの仮説です。
 なお、開成の抜群の実績があった息子の先輩をイメージして今日の4条件を書きました。あいにくと私の昔ではありません。
 私は学校一の乱暴者だったから腕力で、色々なテーマでリーダーをしていました。喧嘩も可の時代でしたので。
 なお、初等科時代、喧嘩で負けたことはありませんでした。2年上までなら勝てたから。3年上とは喧嘩せず、走って逃げました。孫子の兵法の通りした。
 ここで喧嘩ができない時代だから、バトルロイヤルになるのかもと考えてしまいました。多分当たっているでしょう。隠れた苛めも喧嘩をさせない所以かも。良い時代を生きられました。
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