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教育に競争は必要かという議論について考えてみたい。
競争には,自分との競争と他人との競争がある。
まず,自分との競争について言えば,
過去の自分よりも今日の自分を,
今日の自分よりも明日の自分を,
進歩向上させることが,
教育を受けることの意味の一端であるとすれば,
自分との競争は,教育の本質を構成する。
次に,他人との競争について言えば,
(ふつう「競争」という場合には,こちらの意味で使われるわけだが)
こちらは,必ずしも教育の本質的な部分と関わるわけではない。
他人との競争がなくとも,教育は可能だからである。
ところが,学校教育においては,他人との競争は,
教育効果をあげるための最も簡便な動機付けの手段として用いられている。
なぜなら,「競争」に勝ちたいという気持ちは,
人間のかなりプリミティブな部分から出ている気持ちだからである。
その証拠に,例えば,クラス対抗の球技大会か何かにむけて盛り上がっている生徒に対して,,
クラス担任が,もし「別に勝つ必要ないじゃないか」などと言えば,
生徒から袋叩きにあうこと必至である。
ところが,学問とか教育とかいった分野では,
本質的には「別に勝つ必要ない」のである。
自らを高めるために学び続けることにのみ意味があるのである。
教育効果をあげるための簡便な手段にすぎない他人との競争が,
教育の目的と混同されるとき,学校教育の崩壊がはじまる。
いや,すでに始まっている。
必然的に他人との競争である受験とか入試,
そしてそのためにのみ存在する順位付けや偏差値,
あるいは競争結果である進学実績などを用いなければ
権威付けできなくなっている学校に
教育力などは存在しないのである。
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競争には,自分との競争と他人との競争がある。
まず,自分との競争について言えば,
過去の自分よりも今日の自分を,
今日の自分よりも明日の自分を,
進歩向上させることが,
教育を受けることの意味の一端であるとすれば,
自分との競争は,教育の本質を構成する。
次に,他人との競争について言えば,
(ふつう「競争」という場合には,こちらの意味で使われるわけだが)
こちらは,必ずしも教育の本質的な部分と関わるわけではない。
他人との競争がなくとも,教育は可能だからである。
ところが,学校教育においては,他人との競争は,
教育効果をあげるための最も簡便な動機付けの手段として用いられている。
なぜなら,「競争」に勝ちたいという気持ちは,
人間のかなりプリミティブな部分から出ている気持ちだからである。
その証拠に,例えば,クラス対抗の球技大会か何かにむけて盛り上がっている生徒に対して,,
クラス担任が,もし「別に勝つ必要ないじゃないか」などと言えば,
生徒から袋叩きにあうこと必至である。
ところが,学問とか教育とかいった分野では,
本質的には「別に勝つ必要ない」のである。
自らを高めるために学び続けることにのみ意味があるのである。
教育効果をあげるための簡便な手段にすぎない他人との競争が,
教育の目的と混同されるとき,学校教育の崩壊がはじまる。
いや,すでに始まっている。
必然的に他人との競争である受験とか入試,
そしてそのためにのみ存在する順位付けや偏差値,
あるいは競争結果である進学実績などを用いなければ
権威付けできなくなっている学校に
教育力などは存在しないのである。
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私のブログにリンクさせていただきました。
TBのやり方何となくわからなくてすみません。
今後ともよろしくお願いします。
TBさせてもらいました。失礼でしたら、消してください。
タイトルを見ておじゃましました。
「競争から共生へ」いい響きですね。
関連記事を書いていますのでトラックバックさせていただきました。
これからも宜しくお願いします。
>>教育効果をあげるための簡便な手段にすぎない他人との競争が,
教育の目的と混同されるとき,学校教育の崩壊がはじまる。
いや,すでに始まっている。
共感いたします。この混同に無自覚な点は特に問題だと思います。
何の違和感もなく、単なる技術・手段に過ぎない競争原理自体が良いことという一つの価値判断が教育の目的とは何かを問うことなく成立してしまうことを恐れます。競争自体が一つの倫理として立ち現れていることに問題があるように思えます。一つの手段に過ぎないのならば、競争に拠らない手段も考えても良いはずです。
競争以外知らないとどうなるでしょうか。当人にとって幸せか、人にとって幸福か、(快不快ではない)について振り返ることなく張り合います。よくわからずに疲れています。人間関係にも無意識に適用されうる危うさがあります。そしてまた疲れます。私はこれで一度心身ともにぼろぼろになったことがあります。
大学でようやく他人との競争(入試)から解放されるのか。必ずしも否。就職に近いから資本主義社会の嗜好が前倒しされます。ダブルスクールで、学問の府では既に疲れ切って睡眠あるいは欠席。両立できないなら大学を休学するか辞めるのが良いです。両立できる人だけやればよいのです。勝つ技術と勝たなくても良い学問を分けて考えられる人はおよそ両立できるバイタリティを備えていることが多いと感じます。
長々と申し訳ありませんでした。
失礼いたします。
他人より優れたい、認められたい、価値があると実感したいという自己肥大にほかなりません。
競争とは本来、自分による叱咤激励ではなく、他者による避けられない選抜です。
人数制限のために起こる入試選抜、結果的に生じる○○賞(校内順位からノーベル賞に至るまで)。
すべて本人の意思とも学びの意義とも関連性は直接はありません。教育とは、本人の意志とそれをかなえようとする教育側の関係性の問題であり、競争とは無関係です。