「主体的・対話的で深い学び」という言葉が、次期学習指導要領のキーワードになりそうだ。
まず、「主体的」という言葉から考えていこう。学校教育において、児童生徒が主体的であるとはどういうことを指しているのであろうか。冷徹に考えてみると、児童生徒が主体的であるとは、教師が児童生徒を「主体的」であるとみなしたとき、児童生徒が主体的であるということになるにすぎない。なぜならば、児童生徒は、学校における主体ではないからだ。児童生徒は、学校教育に関するあらゆる組織的あるいは教務的事項を主体的に決定する権利を有していない。さらに、児童生徒が主体としてふるまうことはそもそも期待されていない。したがって、児童生徒が主体的であるとは、教師が認める範囲内において、教師が望ましいと考える方向性において、あたかも主体であるかのようにふるまうことを指しているにすぎない。このことを銘記しておくことが、教師として次期学習指導要領下の学習指導に取り組むにあたって必要なことである。
次に、「対話的」ということであるが、児童生徒間、あるいは児童生徒と教師間で対話が成立することはとても大切なことである。対話が成立するためには、聞くこと、話すこと、そのための語彙力や文法力、表現力や思考力、さらに、相手の心情を慮ること、お互いを尊重すること、などなど、学校教育がその過程で育成しなければならない事柄を数多く内包している。決して、児童生徒をお互いに話させただけではそれは。「対話」とは言えないであろう。授業が対話的であるためには、そのまえに教え込んでおかなければならないことがかなり多くあるのだということを自覚しておく必要がありそうである。
最後に、「深い学び」ということであるが、「深い学び」があるということは、「浅い学び」があるということである。何が深い学びで何が浅い学びかと考えてみると、ことはそれほど簡単なことではない。義務教育段階では、学びの深い浅いを問うよりも先に、学びが成立しているかどうかを問わなければならないのではないか。もともと、「深い学び」という言葉が、どこから出てきたかを考える必要がある。アクティブラーニングが喧伝されだしてから、アクティブラーニングをやってみたが効果の現れない事例が明らかになってきた。普通ならば、アクティブラーニングの有効性を疑うべきであるが、そうではなく、アクティブラーニングのやり方の問題だとして、そこに深さの概念を付け加え、ディープアクティブラーニングという新たな概念を提唱して、アクティブラーニングを擁護したところから出てきた言葉だと私は解釈している。だから、「深い学び」という言葉には、それこそ深い意味を見いだしえないのである。
「主体的・対話的で深い学び」について、はなはだ曖昧な話だと知りつつ、あれこれ考えなければならない日々がやってくるのである。