「教員の資質能力」という言葉に前からどうも引っかかるものを感じていた。
例えば,1997年の教育職員養成審議会・第1次答申「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」で「教員の資質能力」を定義した次の文が私には理解できないのである。
教員の資質能力とは、一般に、「専門的職業である『教職』に対する愛着、
誇り、一体感に支えられた知識、技能等の総体」といった意味内容を有する
もので、「素質」とは区別され後天的に形成可能なものと解される。
その理由のひとつは,この文は,「資質」や「能力」という言葉のもともとの意味を無視して書かれているように思えることにある。広辞苑によれば,「資質」とは,「うまれつきの性質や才能。資性。天性。」であり,「能力」は,「物事をなし得る力,働き。」である。なぜ,もともと先天的な性質や才能を意味する語である「資質」という語を用いて,ほぼ同義語である「素質」と区別し,さらに「後天的に形成可能」などという原義とは正反対の意味づけを与えているのであろうか。
さらに,この文では,修飾語を取り除くと「教員の資質能力」とは,「知識・技能等の総体」という意味だということになる。この文構造がわからない。もっと省略すると,「資質能力とは知識・技能等の総体である」となってしまうのである。資質能力と知識・技能ではもともと意味するところが全く違うのに,それがイコールで結ばれているのである。
このような文で定義される「教員の資質能力」とは,一体何なのであろうか?
私のような素人の言語感覚では到底理解不能である。どう考えても,この定義文はアクロバティックすぎる。私には,まるで,「りんごとは,一般にぶどう・ももの総体といった意味内容を有するもので,ひめりんごとは区別され,じゃがいものようなものと解される」とでも言っているかのように聞こえてしまうのである。
かくして,根本のところでこのように定義される「教員の資質能力」というものは,どのようなものなのか,その実体がつかみきれないのである。摩訶不思議である。
例えば,1997年の教育職員養成審議会・第1次答申「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」で「教員の資質能力」を定義した次の文が私には理解できないのである。
教員の資質能力とは、一般に、「専門的職業である『教職』に対する愛着、
誇り、一体感に支えられた知識、技能等の総体」といった意味内容を有する
もので、「素質」とは区別され後天的に形成可能なものと解される。
その理由のひとつは,この文は,「資質」や「能力」という言葉のもともとの意味を無視して書かれているように思えることにある。広辞苑によれば,「資質」とは,「うまれつきの性質や才能。資性。天性。」であり,「能力」は,「物事をなし得る力,働き。」である。なぜ,もともと先天的な性質や才能を意味する語である「資質」という語を用いて,ほぼ同義語である「素質」と区別し,さらに「後天的に形成可能」などという原義とは正反対の意味づけを与えているのであろうか。
さらに,この文では,修飾語を取り除くと「教員の資質能力」とは,「知識・技能等の総体」という意味だということになる。この文構造がわからない。もっと省略すると,「資質能力とは知識・技能等の総体である」となってしまうのである。資質能力と知識・技能ではもともと意味するところが全く違うのに,それがイコールで結ばれているのである。
このような文で定義される「教員の資質能力」とは,一体何なのであろうか?
私のような素人の言語感覚では到底理解不能である。どう考えても,この定義文はアクロバティックすぎる。私には,まるで,「りんごとは,一般にぶどう・ももの総体といった意味内容を有するもので,ひめりんごとは区別され,じゃがいものようなものと解される」とでも言っているかのように聞こえてしまうのである。
かくして,根本のところでこのように定義される「教員の資質能力」というものは,どのようなものなのか,その実体がつかみきれないのである。摩訶不思議である。
「教員の資質能力」とは、生まれ持った資質や能力を指すものではなく、「職業人として」「教育者を目指そうとしたその時から培われるもの」である、ということです。つまり、この言葉は、現在社会にある多くの職業の中から貴方は「教員」を選択した、その時点から「求められる」「資質」や「能力」であり、努力しなさいよ、といっている、ということです。
その意味で、「資質」という言葉の意味である「うまれつきの性質や才能・資性・天性」は、「うまれつき」を「教師としての誕生」に際し、仕事に対する愛着をもてるかどうかや教職に対する知識理解ができるかどうか、教職に就くに際して教えることができるかどうか、が問われます。
教職という仕事への愛着、愛着がなければ「でもしか先生」のとおり(でもしか先生でも転機があり研究修養に励む人もいるが)研究修養への意欲もなく専門性が磨かれない、かといって熱意ある者でも教職に対する知識や理解ができない者や教えることができない(コミュニケーション障害のある)者はいらない、ということになりましょう。
これは、教育職員養成審議会答申の内容であるので、「これから教員になる者」に対する「ある意味で激励であり、ある意味で尻を叩く」言葉であろうと思います。無論、教育養成課程の学生はそれを理解し、教育現場に巣立っていきます。
言葉をめぐっての論争は一般に訴えるのではなく、学校管理職の集まる場において意見を言うことが適切であろうかと思われます。勿論、私は教育現場にいますので、意見表明が困難であることを知っています。
まず,大学の授業で教わったことから理解された内容というのがとても興味深いです。大学が学問の府であれば,まずは言葉とその用法を大切にするというのがどの学問分野においても基本となると思います。
その点から言って,「「教員の資質能力」とは、生まれ持った資質や能力を指すものではなく」という部分が,すでにエントリーで示したように資質能力の原義に反しているため,誤謬とならざるを得ません。すなわち,論理的に言うと,「AはAではない」といっているのと同じようなものだからです。
もし,職業人として教師が身につけるべき,生まれつきのものでないなにものかを指すとすれば,少なくとも「資質」という言葉は使うべきではなく別の言葉を使うべきだと私は考えます。もしそのような適切な言葉がないとすれば,新しい誤解のない言葉をつくるべきです。紛れをなくするという意味では,なんでもいいですが,例えば「教師のポコペン」とでもしておいて,「ポコペン」を定義して使用すればよいのです。さらに,「「うまれつき」を「教師としての誕生」」というのは,これは強引すぎるでしょう。
次に,教育職員養成審議会答申は,第一義的には,これから教員になる者に対するメッセージなどではありません。教員として身につけるべき(ここでいう)「資質能力」すなわちポコペンを確定し,教職課程の教育課程を改善する法整備の方針を準備する答申です。
最後に,もっとも気になったのは,「言葉をめぐっての論争は一般に訴えるのではなく、学校管理職の集まる場において意見を言うことが適切であろうかと思われます」というあなたのお考えです。これらの諸答申は公開されているものです。したがって,それに対する意見(別に論争を意図しているわけではありません)を公開することがよくなくて,学校管理職(管理職がこの答申に何の関係があるのでしょう? むしろ,本当の関係者は国民です)などという狭い範囲で議論せよなどというのは,民主主義社会の根幹に関わる問題だと思いますよ。 また誤解があるようですが,私はこれまで教育現場で意見が言いにくいなどということを感じたことがありません。
おっしゃりたい教職につく者の心構えや覚悟という点については異論はありませんが,気になるところについて,申し述べました。
まさにその通り!
だから,このブログの記事が生まれるのだ!
たぶんですが、、、、「教員の資質能力とは」と書いてあるので、この「とは」というのは、「教員の資質能力」という新しい言葉と考えていいのではないだろうか?
「資質」と「能力」を切り離して考えると、ややこしいことになるから、「教員の資質能力」というくくりで考えるべきではないだろうか?日本語は、大変難しい言語なので、つきつめるよりも、そうとらえて、何が必要とされているのかを考えていった方がよいではないか?
世の中、教員だけでなく、「営業マンとして・・・「エンジニアとして・・・」「警官として・・・・」「裁判官としての・・・」という具合にたくさんでていますよね。日本という国の言語は、それだけ曖昧であり、でも、だから良い事もたくさんあり、という具合に善くも悪くも文化ではないだろうか?
元の文章は計算機でも処理できない非論理的な構造だと良く分かります。
わざと書いていますね。バカな人をだますために。多分、大臣クラスの人をだますために頭の良い人が書いたのでしょう。
恥を知れ、としか私はいえません。この国は南無阿弥陀仏になる運命かもしれません。