Hitorigaten
町の若い衆であった父が、「詠」や「能」を嗜んでいたこともあり、我が家で時折流れていた生あるいはラジオ等からの音声に、奇妙奇天烈な感情を抱いていた憶えがある。
幾星霜が過ぎ、偶然に出会す雅楽や能、さらには年代の宿命により必然的に耳にする読経や声明等に、何故か癒される今日この頃である。
そんな気持ちの辻褄を合わせてくれた一冊であり、続編を心待ちしているひとりである・・
○「仮名序」:紀貫之(古今和歌集)
○力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女のなかをもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり
○中国「詩経」:大序、風、賦、比、興、雅、頌(六義) →「そもそも歌の様六つなり」:そへ歌、かぞえ歌、なずらへ歌、たとえ歌、ただごと歌、いはえ歌
○私どもの祖先のなかには、阿倍仲麻呂のように、当時の大世界帝国の唐王朝に留学してそのまま王朝に任官し、ついには大臣に相当する様な高位に登ってかの玄宗皇帝の厚い信任を得たというような素晴らしい人材がいたことを知って欲しい
○つまり能を見ることは一種の学習でもあったわけである。そこではこの空想説が一つの現実史実としての重みを持ち始める
○能のめでたさは、最小限の所作と最小限の道具立てとそして最小限のことばで、人の世の栄枯盛衰、人の心の喜怒哀楽、そしてあらゆる美景や風情をまですべて舞台の上に具現しようとするところにある
○神様というものは、本質的には清浄なもので、特に日本の神は極度に汚れを嫌う。そういう神にして、わざわざこの汚れた俗世に出現なさるのは、敢えて汚れた世に留まって罪深い衆生を救済してくださる為だとこう説くのである。そういう思念を「和光同塵」という
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます