Linkman#41  乱読の後始末

-乱読、精読、積読-

書籍に触発されて「思考と空想」は、知の荒野を駆け巡るのか…

釈迦に説法 玄侑宗久(新潮新書)

2019年05月31日 | 
Hitorigaten

 「こころ」と「からだ」が疲れてくると、人は何故哲学や宗教に向かうのだろうか…
 日々衰えてゆく記憶力や集中力、視力や筋力は無意識のうちに「老」を蓄積させてくるのだろう。
 知人・友人・親戚・親兄弟等がひとりふたりと鬼籍に入ってゆくのを目の当たりにするたびに憂鬱になり、晩酌のメートルが否応にも上がってしまっている…
 死後のことは誰にも解らない。俗物的だが現世での安寧を望む心の隙間には、神や仏は丁度良いのだろう


○人間は異質な世界を受けいれることが何か偉大な命を創りだせる気がする
○とりわけ欧米では古代から理性や知性への信仰が強いため、あるべきようにあるはずだという信念が「人格」や「性格」を生み出してきたものだと思う
○遺伝子の専門家である村上和雄先生によれば、DNAの97%はどうやら大して機能していないらしいが、ということは3%のなかの違いを人は「個性」と呼んでいるにちがいない
○極論と言われるかもしれないが、「平和」とは、人間中心の社会でのそうした殺戮を見えなくした結果感じられる、ある種の誤認である
○本来人間が実存的な不安や死への恐怖を乗り越えるために作りあげた各宗教の来世が今や多勢の死者を呼び込んでいるように思えて仕方がない
○もしかすると我々は、秩序なき混沌としての「多」をそのまま受け入れることができる民族かもしれない
○安倍晴明(陰陽師):東の薬師如来が陰を司り、西の阿弥陀は果を司ると伝う
○原因を探って治療するつもりなら、朝日に向かって観想し、結果として現状を受け入れるなら夕日に向かえということ
○黎明に人体の神秘を感じ、清濁併せ呑む夕日に人は矛盾のまま受されるべき
○釈迦力:本来、自然という流動し続ける命には始まりも終わりもないのである
コメント
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