Linkman#41  乱読の後始末

-乱読、精読、積読-

書籍に触発されて「思考と空想」は、知の荒野を駆け巡るのか…

協働コーディネーター  世古一穂 編著(ぎょうせい)

2021年07月31日 | 

Hitorigaten

 ICT技術の進歩により、仕事の効率化が一層進み、時間や空間の隔たりを一瞬にして埋め尽くす術を朧気ながらにも手に入れた錯覚に陥ってしまったのか、Homo sapiensは…
 しかし、本当に重要な仕事や約束事では、最後の決断・締結、実行に至る過程で、時間や空間を十分割いても、直接面談が必要不可欠になっているのは、何故なのか。
(逆に、小生はホッとする気分になるのだが…)


○社会を「公」「公共」「私」の三元論で捉え直す必要がある
○「私(自分)」を活かして他者と交流しつつ「公共」の領域を広げ、それを「公」に媒介して「公」そのものをも開いていくというのが「公共哲学」の考え方だ
○「こんな町なんて」と思っていた人が「この町も捨てたもんじゃない」と思い始め、いかに「七尾が好き」と誇りを持って言えるようになる →どの統計書にお反映しがたい定性的な人々の心理の変化
○事例2
 ①協働の場を設置-課題に参加すべき人々を集め、より具体的な目標と活動内容を定める、②参加の枠を拡げ、技術的にサポートする有識者を巻き込む、③河川管理者との調整、パブリシティを利用した広報リリース、④プロジェクトを進めるために必要な資金調達やそのためのアドバイス、⑤常設化のために河川管理者との調整や維持管理のしくみづくり
○ジャック・デリダ(仏 哲学者)「来たるべき民主主義」(2004刊):他者や出来事に無条件に開かれているがゆえに不断に刷新され自己実現することのない民主主義を展望
○民営化の「民」は「市場」と同義ではない。「民」は非市場的なもの、非営利的なもの、金に換算されない生活の現場、そこに生きる「市民」と解するのが重要だ

コメント
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