「いつも失敗の不安抱えていた」万波医師が胸中語る(読売新聞) - goo ニュース
病気腎移植で世間が注目した万波誠医師が、今でも宇和島徳洲会病院で診療を続けているのだろうかとか、その後腎臓移植をまた行ったのだろうか、と思うことがあるが、そうしたニュースが伝わってこない。もっとも私も目を皿のようにして新聞やテレビを眺め渡しているわけではないから、ニュースを見逃している可能性も高い。と思っていたらこの読売新聞の報道が目に止まった。
しかし私の知りたいことはこの報道では分からない。どうも取材記者とかデスクの興味、関心は別のところにあるようだ。しかしそれにしても、この報道で何を伝えたいのか、私にはピンと来ない。
《「苦しんでいる患者のために始めたが、いつも(失敗の)不安を抱えていた。意気揚々とやっているわけではない」と胸の内を語った。》
医者が自分の医療行為に失敗の不安を抱いているのが特に異常とは思えない。人間のすることは、何事であれ失敗の恐れがある。だからこそ医師は絶えず謙虚であるべきものだ。それにそもそも手術は医者が意気揚々とするようなことなのだろうか。
この取材記者の万波医師に対するある思いこみが、この記事のニュアンスに現れているように私は感じる。病気腎の移植にそれなりの問題があったということを、万波医師の口から云わせたかったのだろうか。としたら失敗のようだ。
《国や学会は現在、病気腎の摘出と移植の妥当性を調べており、万波医師は国などの結論が出るまで病気腎移植を自粛している。》
私は以前にも取り上げたが、病気腎の摘出の妥当性に関しては、出来る限り状況を調査して、今の時点で一定の評価が下されるべきであると思う。これは病気腎を摘出した医師の医療行為の是非を問うことになる。しかし病気腎の移植の妥当性は誰がどのような手段で評価できるのだろう。現時点で評価できる最適任者は万波医師であろうと私は思う。ただしこれが移植手術そのものの医学的評価に限られるところが問題で、保険の適用とかその他もろもろの手続き問題を取り上げだしたら、万波医師の医療行為が大きな制約を受けるであろうことも予期できる。万波医師を潰す気ならばいかなる攻め手でもあるだろう。チャレンジャーの避けられない宿命とも云える。そのせめぎ合いが私の気になるところである。
《「既存の移植の延長で、実験的医療ではないと思う」と持論を展開。動物実験なしに実施したことを明らかにした。 》
1990年前後に市立宇和島病院で一例目の病気腎移植を行った際の状況の報道である。《動物実験なしに実施》と記事がわざわざ断っているのがどういう意図なのか私には分からない。と言うのは医療技術の進歩に、人間のボランティアが必要欠くべからざるものであることは自明の理だからである。置かれた状況がそれなりに説明されているとの前提付きであるが、病気腎の移植を受けた患者は、ボランティアと位置づけるように私は思っている。
なるほど手技そのものは実験動物相手に磨くことは出来るだろう。しかし動物と人間との間には厳然として越えられない一線があって、必ずや人間第一号が試験台として必要になる。その人間第一号にとって、犬や豚ではうまく行ったからね、と云われることがどれほどの気休めになるものか、その立場に自分を置いて考えると答えは自ずから出てくる。《動物実験なしに実施したことを明らかにした》なんて記事に対して、私なら「それがどうした」で終わりである。
理解に専門的知識が欠かせない事柄を、一般読者が分かりやすいように説明するのは確かに至難の業である。でも何事であれ問題点を具体的に浮かび上がらせるもう少し内容のある記事を期待したいものだ。
病気腎移植で世間が注目した万波誠医師が、今でも宇和島徳洲会病院で診療を続けているのだろうかとか、その後腎臓移植をまた行ったのだろうか、と思うことがあるが、そうしたニュースが伝わってこない。もっとも私も目を皿のようにして新聞やテレビを眺め渡しているわけではないから、ニュースを見逃している可能性も高い。と思っていたらこの読売新聞の報道が目に止まった。
しかし私の知りたいことはこの報道では分からない。どうも取材記者とかデスクの興味、関心は別のところにあるようだ。しかしそれにしても、この報道で何を伝えたいのか、私にはピンと来ない。
《「苦しんでいる患者のために始めたが、いつも(失敗の)不安を抱えていた。意気揚々とやっているわけではない」と胸の内を語った。》
医者が自分の医療行為に失敗の不安を抱いているのが特に異常とは思えない。人間のすることは、何事であれ失敗の恐れがある。だからこそ医師は絶えず謙虚であるべきものだ。それにそもそも手術は医者が意気揚々とするようなことなのだろうか。
この取材記者の万波医師に対するある思いこみが、この記事のニュアンスに現れているように私は感じる。病気腎の移植にそれなりの問題があったということを、万波医師の口から云わせたかったのだろうか。としたら失敗のようだ。
《国や学会は現在、病気腎の摘出と移植の妥当性を調べており、万波医師は国などの結論が出るまで病気腎移植を自粛している。》
私は以前にも取り上げたが、病気腎の摘出の妥当性に関しては、出来る限り状況を調査して、今の時点で一定の評価が下されるべきであると思う。これは病気腎を摘出した医師の医療行為の是非を問うことになる。しかし病気腎の移植の妥当性は誰がどのような手段で評価できるのだろう。現時点で評価できる最適任者は万波医師であろうと私は思う。ただしこれが移植手術そのものの医学的評価に限られるところが問題で、保険の適用とかその他もろもろの手続き問題を取り上げだしたら、万波医師の医療行為が大きな制約を受けるであろうことも予期できる。万波医師を潰す気ならばいかなる攻め手でもあるだろう。チャレンジャーの避けられない宿命とも云える。そのせめぎ合いが私の気になるところである。
《「既存の移植の延長で、実験的医療ではないと思う」と持論を展開。動物実験なしに実施したことを明らかにした。 》
1990年前後に市立宇和島病院で一例目の病気腎移植を行った際の状況の報道である。《動物実験なしに実施》と記事がわざわざ断っているのがどういう意図なのか私には分からない。と言うのは医療技術の進歩に、人間のボランティアが必要欠くべからざるものであることは自明の理だからである。置かれた状況がそれなりに説明されているとの前提付きであるが、病気腎の移植を受けた患者は、ボランティアと位置づけるように私は思っている。
なるほど手技そのものは実験動物相手に磨くことは出来るだろう。しかし動物と人間との間には厳然として越えられない一線があって、必ずや人間第一号が試験台として必要になる。その人間第一号にとって、犬や豚ではうまく行ったからね、と云われることがどれほどの気休めになるものか、その立場に自分を置いて考えると答えは自ずから出てくる。《動物実験なしに実施したことを明らかにした》なんて記事に対して、私なら「それがどうした」で終わりである。
理解に専門的知識が欠かせない事柄を、一般読者が分かりやすいように説明するのは確かに至難の業である。でも何事であれ問題点を具体的に浮かび上がらせるもう少し内容のある記事を期待したいものだ。