「清虚洞一絃琴」の流祖徳弘太(とくひろたいむ)(1849~1924)の作曲になる大曲で、演奏時間は20分を優に超える。
われは誰が 子なるや 知らず
白川の 奥の岩窟(いはや)を假の宿
すめる心は孫登(そんとう)が たぐひならねど
ひとつ緒の琴 かきならす楽しさよ
山中 佳趣 四時多
(さんちゅう かしゅ しじおほし)
清韻伴絃 何最好
(せいいん ともなふげん なにをかもっともよき)
春は梢に ももどりの さへづる声も のどかなり
夏は谷間に 真清水の 岩にせかかる 音涼し
秋は草葉の 夕露に あはれを添ふる 虫の声
冬は時雨の 降るなべに 落つる木の葉の 音わびし
いつか冬暮れ また春に とし立ちかへり 立ちかへり
渓壑(けいがく)の興 かぎり知られず
この曲を教えていただいただけでも、一弦琴を始めた甲斐があったと思っている。
人生と四季、とても素直に唄える。余生をかけてこの曲をものにしたいものと、折に触れお浚いに励んでいる。
まさに「ひとつ緒の琴 かきならす楽しさよ 」である。
季節にちなみ「秋」を浚ってみた。
われは誰が 子なるや 知らず
白川の 奥の岩窟(いはや)を假の宿
すめる心は孫登(そんとう)が たぐひならねど
ひとつ緒の琴 かきならす楽しさよ
山中 佳趣 四時多
(さんちゅう かしゅ しじおほし)
清韻伴絃 何最好
(せいいん ともなふげん なにをかもっともよき)
春は梢に ももどりの さへづる声も のどかなり
夏は谷間に 真清水の 岩にせかかる 音涼し
秋は草葉の 夕露に あはれを添ふる 虫の声
冬は時雨の 降るなべに 落つる木の葉の 音わびし
いつか冬暮れ また春に とし立ちかへり 立ちかへり
渓壑(けいがく)の興 かぎり知られず
この曲を教えていただいただけでも、一弦琴を始めた甲斐があったと思っている。
人生と四季、とても素直に唄える。余生をかけてこの曲をものにしたいものと、折に触れお浚いに励んでいる。
まさに「ひとつ緒の琴 かきならす楽しさよ 」である。
季節にちなみ「秋」を浚ってみた。
日暮れて道遠し、の感ありです。
わたしは『夏』が好きです。
この歌のあと、水の音(滝の音か川の音か)が
流れるように聞こえて…涼しげです。
孫登が出てきて「琴道」云々かと思いきや
『琴 かき鳴らす楽しさ』と言っているのですから
やはり音楽としての一弦琴を愛でていたのでしょうか。
一弦琴の世界に横たわる閉鎖性が
(自分にはそう感じられるのですが)
この「琴 かきならす楽しさよ」を奏者が共有することで
なくなればいいのにと、ふと思ったりしました。
琴音さんの仰る「閉鎖性」、どのようなことで「閉鎖性」感じられるのでしょうね。
視点がすこし逸れるでしょうが、私はいろんな方の演奏は聴きたいのですが、師匠は一人で十分だと思っているんです。「口伝」は個性の伝承ですから、ただひたすら吸収する。そのための師匠なんだと思って。最低十年ぐらいはかかるのでしょうか。そして何時でも自分が師匠の流儀に戻れると自信がついたら、言い換えて自分の基軸が確立できたと思えるようになったら、あとは自分流で自由奔放に羽ばたきたいと考えています。
このように、私には「浮気」を自分に禁じていることから生まれる「閉鎖性」のようなものはあるのかもしれません。