日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

鴎外二題

2004-10-11 09:14:23 | 海外旅行・海外生活
その一、ライプチッヒの地下酒場に森鴎外が留学中に頻繁に通った、なんて前回紹介したけれど、これはガイドブックからの引き写しである。書いてしまってから気になり、ちょっと調べることにした。

まずは鴎外がライプチッヒに到着するまで。

岩波書店から昭和50年に発行された鴎外全集第35巻、87ページから191ページに亘って明治17年10月から同21年5月までの「独逸日記」が収められている。そして添付の月報35では「17年8月23日出発10月12日伯林着ライプチッヒ大学に入る19年5月ミュンヘン大学20年4月伯林大学に入る」と独逸での動向が簡潔に記されている。「独逸日記」によると「22日、午後2時30分、汽車にて伯林を発す。ライプチッヒに達せしは5時35分なりき。」とあって、ベルリン、ライプチッヒ間が約3時間であることが分かる。現在はその170km余りをICEが2時間足らずで走るが、当時数えで23歳の鴎外青年にとって時速60kmで走る汽車は飛鳥の如く感じられたにちがいない。。

「独逸日記」に注意深く目を走らせたが、この地下酒場のことが出てくるのは一カ所で、明治18年12月27日、「・・・夜井上とアウエルバハ窖 Auerbachskeller に至る。ギョオテの「ファウスト」Faust を訳するに漢詩体を以てせば・・・」とあるのみ。ミュンヘンに移るまでのほぼ1年半の間、ここ以外の酒場、カフェーに顔出ししていることが日記から分かるが、地下酒場を頻繁に通った事実を裏付けるものはなかった。ただ大学のキャンパスからも近いので、昼食を摂るにはもってこいの所、ある時は一人で黙々とジャガイモ料理を食べ、ある時はビール片手に仲間との談論を楽しんだことであろう。鴎外は几帳面だったようであるから、もし出納帳を残しているのなら間違いなく酒場通いも記録されているであろう。。


その二、鴎外記念館に偶然出くわした話である。妻が転倒して額の傷の手当てを受け、病院から解放されたのは午後2時過ぎ。外に出てまず目に入ったカフェーで巨大なケーキとコーヒを注文して昼食代わりとした。終わったのが3時頃、店を出て周囲を見渡すと鉄道の高架が目の前の通りの遙かかなたに見える。そちらの方に行けばいずれは駅が分かるだろうと歩き出してしばらくすると、妻が「鴎外記念館がある」という。足元に気をつけなかったからひっくり返ったのだから、おそるおそる路面を見下ろしながら歩くのかなと思ったのに、脚下照顧もなんのその、視線を上に向けて闊歩していてかなり高いところにある案内板に気づいたらしい。歩いてきたLuisenstrasseに面して入り口があった。
明治20年4月15日、鴎外はライプチッヒの後ミュンヘンに移り、そして最後の滞在地ベルリンにやって来たのである。「ロウベルト、コッホ Robert Koch に従いて細有機物学を修めんと欲するなり」がその動機である。夜汽車であったが車中、ハプニングのおかげで一睡も出来ずにベルリンに到着したらしい。翌16日の昼時にベルリンに到着し、早くも18日に宿として落ち着いたのがこの建物である。Marienstrasse 32 bei Frau Stern。Luisenstrasse とのちょうど角になる。鴎外在独中の下宿でここだけが唯一現存しているとのことである。閉館が4時なので滑り込んだもののあまり時間が残されていなかった。

2階に上る。フロア全体が記念館のようである。いくつもの部屋に展示品があり、本で占められた部屋もある。鴎外全集はもちろんのこと岩波の古典文学全集なども揃っている。説明によるとこの記念館は、現在ベルリン・フンボルト大学日本文化研究センターの付属機関となっているので、研究の用にも役立っているのであろう。

鴎外が生活をしていた部屋が再現されていた。窓二つを備えて一隅に暖房用の陶器製煙道が設けられていた。ベッド、洗面台、机に椅子、書棚などが20畳前後の部屋に配置されている。ストイックではあるがゆとりのある設えで、政府からの官費留学生であった若きエリートの豊かな生活を彷彿とさせるものである。

ところが入居して2ヶ月も経たないうちに鴎外はこの下宿を逃げ出している。「(6月)15日。居を衛生部の傍らなる僧坊街 Klosterstrasse に転ず。」これに引き続いて理由を述べている。それを私流に解するとこうなる。

この家主は40ばかりの寡婦で17歳の姪と一緒に住んでいるのだが、その二人とも浮薄このうえもなく、お喋りで遊び好き。家に居れと云われるぐらいなら死んだ方がましと云って出歩く。だから自分がいないと届いた郵便物なども受け取って貰えないし、来客があってもサービスしてくれない。それにこの17歳の姪は夜になると部屋にやってきて、わがベッドに座っては話し込む。悪意があるのでは無いが、この懐の暖かい自分を籠絡してやろうとの魂胆は見え見えである。そのくせ、日頃教育のある人種との付き合いなどないものだから、学問に精励するものを役立たずの勉強馬鹿とののしり、自分をその親玉のように云う。こんなところはもう我慢できない。

あらためてベッドを見るとこれはシングルベッド。そこを占拠されたら鴎外は机の前の椅子にでも座っていたのだろうか。今でもそうだがヨーロッパの小さな宿のベッドは、長年の使用なのか真ん中が落ち込んでいるのが多い。横に座るわけにはいかないだろう。

鴎外が帰国後、独逸から彼を追って来日した女性の存在はよく知られていること。その頃既に付き合いが始まっていたのであろうか。また調べる材料が出てきたところで今日はお仕舞い。

慌ただしく駆け抜けて記念館から出てきて妻は「これ見つかったのは怪我の功名」と鼻高々だった。