日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

原子炉海水注入問題 産経も踊らされていたとはお気の毒だが

2011-05-26 17:42:06 | 放言
原子炉海水注入問題 新聞報道に踊らされまいと思うものので産経ニュースの記事を次のように引用した。

震災翌日の原子炉海水注入 首相の一言で1時間中断

 東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発1号機に関し、3月12日に東電は原子炉への海水注入を開始したにもかかわらず菅直人首相が「聞いていない」と激怒したとの情報が入り、約1時間中断したことが20日、政界関係者らの話で分かった。

 最近になって1号機は12日午前には全炉心溶融(メルトダウン)していたとみられているが、首相の一言が被害を拡大させたとの見方が出ている

 政府発表では3月12日午後6時、炉心冷却に向け真水に代え海水を注入するとの「首相指示」が出た。だが、政府筋によると原子力安全委員会の班目春樹委員長が首相に海水注入で再臨界が起きる可能性を指摘、いったん指示を見送った

 ところが、東電は現場の判断で同7時4分に海水注入を始めた。これを聞いた首相が激怒したとの情報が入った。東電側は首相の意向を受けてから判断すべきだとして、同7時25分に海水注入を停止した。その後海水注入でも再臨界の問題がないことが分かった。同8時20分に再臨界を防ぐホウ酸を混ぜたうえでの注水が再開されたという。
(2011.5.21 00:42 )

その上で、《この55分間の海水注水停止がいったいどのような被害を拡大させたというのだろう。その意味で上の記事には裏付けが欠けていると言わざるをえない》と論じた。そして先程のニュースである。

海水注入「中断してなかった」 東電が発表

 東京電力は26日、福島第一原子力発電所1号機への海水注入を一時中断していた問題について、実際には発電所長の判断で中断していなかった、と発表した。本社内では「海水注入については首相の了解が得られていない」として、いったん注入を停止することを決めた。しかし、実際には発電所長が「事故の進展を防止するためには、原子炉への注水の継続が何よりも重要だ」として、注水を継続していたという。
(asahi.com 2011年5月26日15時24分)

あいた口がふさがらないとはまさにこのこと。振り回された産経も気の毒であるが、この事実をこの期に及んで後だしする東電の関係者、全員ピンタである。

「安全基準」と「制限速度」

2011-05-26 12:53:16 | 放言
昨日朝日朝刊に掲載された水俣病で著名な原田正純さんへのインタビュー記事、「教訓生きなかった福島原発の事故 専門家とは誰か」はなかなか示唆に富んでいた。「実学」に裏打ちされているだけに、原田さんの語る言葉は常識ある人の心に素直に染み込み、そして説得力がある。私も共感を抱く「安全基準」についてのことだけを取り上げてみる。

――放射性物質の安全基準が問題になっています。どこで線を引き、住民にどう説明するべきでしょう。

 「注意してほしいのですが、安全基準とはあくまでも仮説に基づく暫定的な数値であって、絶対的なものではありません。そもそも『安全基準』という言葉がよくない。どこまでなら我慢できるか、『我慢基準』と呼ぶべきだという人もいます

 ――それでは安心できません。

 「そう。それはものすごく気になっている。住民にしてみたら、自分たちは安全なのかそうでないのか。なぜ避難しなければいけないのか。なぜまだ戻れないのか。その根拠は何なのよ。そういう疑問はまったく当然です」

 「テレビの報道でも『政府は根拠を示せ』と言っているでしょ。ところが、実際には絶対的な根拠なんてない。それなのに(政治もメディアも)あるはずだと決めてかかるからおかしなことになる」

 「ただし、根拠を示せないからといって政府が口をつぐんだらだめ。『現時点では十分な科学的根拠はありません。でも今後こういう危険が考えられるので、政治的な判断で実施します』ということを、ていねいにていねいに説明することです。もちろん住民の不安をあおったらいけないけれど、放射線の影響には未知の部分があることもしっかり押さえておかないといけない」
(2011年5月25日03時00分)

「安全基準」に絶対的な根拠なんてないことは全くそのとおりだと思う。したがって「放射線に安全なレベルはない」ことも論理的な帰結として納得できる。かっては許容線量という用語も用いられたが、「許容」が絶対安全の意味に誤解されやすいので、「線量限度」という概念が用いられるようになった経緯(岩波理化学時点)でも明らかなように、囚われるべきでない「安全」とか「許容」という言葉の催眠術にかかってしまうと、根拠があるわけではないただの数値に操られることになってしまう。その傾向は数値が「法律・通知」で規定されるととくに顕著になるし、その代表的な例が「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」で、非常事態収束後の基準である1~20mSv/年の適用で問題ないとか、いや、それでは甘すぎるという意見である。

余計な放射能に曝されないことが良いのに決まっているが、現実に放射能が増加した環境下で、20mSv/年であれば運動場でいつものように遊んでも良いし、プールで泳ぐことも可能だけれど、1mSv/年にすれば外に出ることも一切まかりならぬとなったときに、その選択に現場の関係者の判断が入っても良いのではなかろうか。いささか乱暴な比較かもしれないが、たとえばよく整備された道路を走っている時に、制限速度が60キロであっても状況に応じてそれを上回る速度で走ることは大勢が経験していると思うが、それは自分独自の判断が法律をうわまわったからなのである。この辺の事情は以前に制限速度の怪 ― 出鱈目な制限速度設定遅すぎた高速道の速度制限緩和 でも歓迎で記しているので、お目通しいたたければと思う。

こういうことが言えるのも、制限速度の設定に人を納得させる根拠がないからであって、放射線量の基準値の設定とて同じようなものである。となれば通常より高い放射能を帯びた農作物なり漁獲物を受け入れるかどうかが、自分が我慢できるかどうかで決まることがあってもそれは自然の流れである。商品に放射線量の正しい表示さえあれば、あとは消費者が決めれば良いのである。さあこの理屈、世間に通用するだろうか。