日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

朝鮮考古学の有光教一氏 高麗美術館

2011-05-17 18:52:34 | 在朝日本人
産経新聞朝刊に掲載されたソウル支局長・黒田勝弘さんの「から(韓)くに便り 生涯で最も満ち足りた日々」と題する記事が目についた。一部を引用する。

 朝鮮考古学の大家だった有光教一京都大学名誉教授が亡くなられた。103歳だった。文字通り“地をはう”ような発掘を多く手がけた考古学者だった。若いころから野外で鍛えられた体が、その長寿の秘密ではなかったかと思われる。

 有光先生とは1997年、本紙の大型企画「20世紀特派員」の韓国編「隣国への足跡」の取材で、京都の自宅でお会いした。

 有光さんは京大史学科の大学院生の時、日本統治下の韓国(朝鮮)に渡った。1941年(昭和16年)からは「朝鮮総督府博物館」の主任(館長)を務めた。45年(昭和20年)8月の敗戦後、韓国風にいえば解放後も米軍政当局の命令で韓国に残留し、「韓国国立博物館」の開館にかかわった。

 韓国残留は翌46年5月まで続き、韓国考古学史の第1ページを飾る古都・慶州での韓国人自身による初めての古墳発掘も指導した。韓国考古学の恩人である。

 米軍政当局は文化財に理解が深かった。有光さんは戦時中ということで各地に分散、疎開させていた文化財を米軍のトレーラーで回収してまわった。展示品にはあらたに韓国語や英語の表示を付けた。敗戦・解放の年の12月3日、旧朝鮮総督府博物館は「韓国国立博物館」としてよみがえった。

 有光さんは「あれは生涯で最も満ちたりた日々だった」と語っておられた。


在朝日本人であった私が故国への引き揚げを待つ京城で南大門を中心にうろちょろしていた頃、有光さんは各地に分散、疎開させていた朝鮮の文化財を、米軍のトレーラーで回収してまわっていたのである。これらを「朝鮮総督府博物館」の所蔵文化財とともに整理して、新生「韓国国立博物館」の展示品として甦らせることに、日本の敗戦も些事とせんばかりに情熱を傾けてこられたのであろう。1907年生まれの有光さんは当時38、9歳でまさに働き盛りである。「あれは生涯で最も満ちたりた日々だった」の言葉そのものであった有光さんの仕事への傾倒ぶりが、まわりの朝鮮の人々の心を大きく揺すぶったことであろう。「韓国考古学の恩人」もむべなるかなである。朝鮮総督府にこのような方のおられたことを元在朝日本人として誇らしく思えた。

私は有光さんを直接には存じ上げない。ところが思いがけない接点のあったことが分かった。私の好きな因縁話である。私が京都に単身赴任中、一時、一階に「ローソン」の入っているビルディングのペントハウスに住んでいたことがある。堀川通りを挟んだ向かい側が加茂川中学校で、ベランダに出るとやや左手に高麗美術館を見下ろすことが出来た。その開館記念式典の行われたのも上から眺めていたように思う。在日朝鮮人がパチンコやレストラン経営で財を成し、それで高麗美術館を作ったのだという話を耳にした。この鄭詔文さんがなかなかの傑物であることが私にも追々と分かってきたのであるが、それよりもこんな近くに朝鮮の建物が出来たことが私には嬉しくて、ちょこちょことお邪魔することになった。建物に入るといわゆる美術品の展示のみではなくて、家具とか衣裳とか、生活の場の用品が展示されているのが私の郷愁を深く掻きたてた。訪れる人もあまり多くは無く、静かな空間で蔵書の数々を逍遙しては、かっての朝鮮での生活に思いを馳せたのである。

有光教一さんはこの高麗美術館に併設された高麗美術館研究所の所長を長年なさっていたようである。そして約一万冊に及ぶご自身の蔵書を開館間もない高麗美術館に寄贈されたのである。だから当時そのことを知らずに、有光文庫図書のあれこれに手をつけていたことは間違いないと思う。私にとって「朝鮮」はまだまだ遠くにはなっていないようである。