日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「安全基準」と「制限速度」

2011-05-26 12:53:16 | 放言
昨日朝日朝刊に掲載された水俣病で著名な原田正純さんへのインタビュー記事、「教訓生きなかった福島原発の事故 専門家とは誰か」はなかなか示唆に富んでいた。「実学」に裏打ちされているだけに、原田さんの語る言葉は常識ある人の心に素直に染み込み、そして説得力がある。私も共感を抱く「安全基準」についてのことだけを取り上げてみる。

――放射性物質の安全基準が問題になっています。どこで線を引き、住民にどう説明するべきでしょう。

 「注意してほしいのですが、安全基準とはあくまでも仮説に基づく暫定的な数値であって、絶対的なものではありません。そもそも『安全基準』という言葉がよくない。どこまでなら我慢できるか、『我慢基準』と呼ぶべきだという人もいます

 ――それでは安心できません。

 「そう。それはものすごく気になっている。住民にしてみたら、自分たちは安全なのかそうでないのか。なぜ避難しなければいけないのか。なぜまだ戻れないのか。その根拠は何なのよ。そういう疑問はまったく当然です」

 「テレビの報道でも『政府は根拠を示せ』と言っているでしょ。ところが、実際には絶対的な根拠なんてない。それなのに(政治もメディアも)あるはずだと決めてかかるからおかしなことになる」

 「ただし、根拠を示せないからといって政府が口をつぐんだらだめ。『現時点では十分な科学的根拠はありません。でも今後こういう危険が考えられるので、政治的な判断で実施します』ということを、ていねいにていねいに説明することです。もちろん住民の不安をあおったらいけないけれど、放射線の影響には未知の部分があることもしっかり押さえておかないといけない」
(2011年5月25日03時00分)

「安全基準」に絶対的な根拠なんてないことは全くそのとおりだと思う。したがって「放射線に安全なレベルはない」ことも論理的な帰結として納得できる。かっては許容線量という用語も用いられたが、「許容」が絶対安全の意味に誤解されやすいので、「線量限度」という概念が用いられるようになった経緯(岩波理化学時点)でも明らかなように、囚われるべきでない「安全」とか「許容」という言葉の催眠術にかかってしまうと、根拠があるわけではないただの数値に操られることになってしまう。その傾向は数値が「法律・通知」で規定されるととくに顕著になるし、その代表的な例が「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」で、非常事態収束後の基準である1~20mSv/年の適用で問題ないとか、いや、それでは甘すぎるという意見である。

余計な放射能に曝されないことが良いのに決まっているが、現実に放射能が増加した環境下で、20mSv/年であれば運動場でいつものように遊んでも良いし、プールで泳ぐことも可能だけれど、1mSv/年にすれば外に出ることも一切まかりならぬとなったときに、その選択に現場の関係者の判断が入っても良いのではなかろうか。いささか乱暴な比較かもしれないが、たとえばよく整備された道路を走っている時に、制限速度が60キロであっても状況に応じてそれを上回る速度で走ることは大勢が経験していると思うが、それは自分独自の判断が法律をうわまわったからなのである。この辺の事情は以前に制限速度の怪 ― 出鱈目な制限速度設定遅すぎた高速道の速度制限緩和 でも歓迎で記しているので、お目通しいたたければと思う。

こういうことが言えるのも、制限速度の設定に人を納得させる根拠がないからであって、放射線量の基準値の設定とて同じようなものである。となれば通常より高い放射能を帯びた農作物なり漁獲物を受け入れるかどうかが、自分が我慢できるかどうかで決まることがあってもそれは自然の流れである。商品に放射線量の正しい表示さえあれば、あとは消費者が決めれば良いのである。さあこの理屈、世間に通用するだろうか。





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