日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

昨日の一日 一弦琴の会と歌曲・アリアのレハーサル

2010-11-01 17:18:54 | 音楽・美術
京都山水会の一弦琴演奏会が京都の法住寺で昨日催された、第三十三回になる。昔のお稽古仲間にも会えるし、またお師匠さんの厳しい目の行き届いた演奏に接すと自分の背筋もしゃんとするので、出かけるのが楽しみなのである。会場が法住寺になって三回目であるが、JR京都駅からタクシーに乗って行く先を法住寺と告げても、三回が三回とも通じなかった。法住寺は「梁塵秘抄」を編んだ後白河法皇に関わりのある寺でもあるので、一弦琴の演奏にこそゆかりが求められるにせよ、京都の人にはあまり馴染みがないのだろう。三十三間堂の東隣ということで行って貰った。

今年の演奏会はこれまでと違った形になっていて、それがなかなかよかった。従来は門下生が独奏することはなかった。私は黒一点なものだから余計もの扱いよろしく一人で舞台に上らされたが、女性のお弟子さんの場合は必ずと言ってよいほどお師匠さんが一緒だった。弟子が一人では心細かろうと言う老婆心とも受け取られるが、これでは弟子が幾つになっても独り立ちをし難くなる。私も分野は違っても教師の端くれであったので、お師匠さんが何時までも弟子に連れ添って、舞台に出ずっぱりなのがどうも気になっていたのである。それがこのたびは、全員合奏を除いてはお師匠さんの出番は十八番「泊仙操」の独奏だけとなっていたのである。従ってお弟子さん三人の独奏に加えて、二人、三人の合奏もお師匠さんぬきであったことが私にはとても新鮮に感じられた。お師匠さんの英断があってのことと思うが、ようやく京都山水会も親離れ子離れを果たし、本当の意味での成熟期に入ったことを実感したのである。

独奏が増えたことは聴く側にとってもメリットになった。これまでも八橋検校による箏曲「みだれ」が何回か一弦琴で演奏されたが、いつもお師匠さんが弟子を引き連れての合奏であった。今回はその曲が一人で弾かれるのを始めて聴いて、一弦琴の秘める能力の大きさと演奏技法の奥深さに心が大きく揺れ動かされたのである。独奏なので一弦琴のもてるものすべてが、第二、第三の琴に変調されることなく素直に耳に届いてくると、一弦琴の音色の微妙かつ繊細な美しさに心が大きく洗われたのである。一弦琴は元来合奏用の楽器ではあるまい。お稽古の一環としては合奏もよいが、それはあくまでも方便と弁えるべきであろう。そのことを改めて思い知ったのである。

京都山水会が演奏する曲はいわゆる一弦琴古典曲が中心で、毎年のプログラムもあまり代わり映えがしない。その行き方が不思議と私の趣向に合っているものだから、何時までもお付き合いが続くような気がする。しかしその間に醸成されてきたマグマのようなものが、ある時に噴出するような予感がないわけではない。その一つの芽でよいから、目の黒いうちに見極めたい気がする。それが衣鉢を継ぐ一つの道でもあろう。

会が終わってから皆さんとお茶を一緒にして歓談を楽しみ、次は本降りの雨の中を西宮・芸文センターのスタジオに向かった。私たちのヴォイストレーニングの成果を披露する演奏会が11月3日にあるが、そこで歌う歌曲やオペラ・アリアのレハーサルなのである。邦楽から洋楽へ切り替わったが、200年以上も昔に作られた歌を歌う点では一弦琴の場合と似ていることに気付いた。モーツアルトやシューベルトの作った歌をふつうは古色蒼然とは言わないから、そう思ってみると一弦琴古典曲の方が時代的にはより新しく、日本人にとってはこれらの西洋音楽よりもっと身近に感じて良いはずである。一日で邦楽と洋楽を掛け持ちしたお陰で、遅まきながら新しい視点を見出したようである。